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宮城県加美町宮崎字屋敷二番

震災前取材


仙台藩藩儒の芦東山(あしとうざん)は、現在の岩手県一関市大東町に農民の子として生まれた 。その才能を見出され、15歳で仙台藩の儒者の田辺希賢(たなべまれかた)の門弟になり、19歳で仙台藩主伊達吉村に御前講義を行った。京都、江戸に遊学し、その後藩儒としてよく勤めた。

しかし、学問には身分の隔てはないとする東山の考えは、当時では早すぎる内容で、危険思想とみなされ、元文3年(1738)、43歳の折に蟄居を命じられた。

東山は、この地で20年間の幽閉生活を送ったが、その間に、「目には目を、歯には歯を」といった応報刑が当たり前であった時代に、教育刑を盛り込んだ日本最初の刑法の「無刑録」をあらわした。

このような思想はヨーロッパでは19世紀末に生まれたとされるが、その100年以上も前にこの幽閉の地で思考され書かれた。完成後も出版は許されなかったが、百年余を経た明治10年(1877)、元老院幹事陸奥宗光らの尽力により、元老院から公刊され、明治政府の近代刑法制定にあたり、この「無刑録」が参考にされることが多かったと云う。

東山は、67歳で許され幽閉を解かれ、その後表に出ることはなかったが、故郷に戻り子供達の教育に尽力し、安政5年(1776)、81歳で没した。