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宮城県色麻町四竈字東原

震災前取材

 

色麻の歴史は古く「続日本紀」の天平9年(737)の記述に「色麻柵……」とあることから、奈良時代前期にはすでに軍事、交通の要衝として重要な役割を果たしてきたと推測されている。これに先立つ時期に播磨の飾磨(兵庫県姫路市)から移住した一族がその出身地の地名にちなんで命名したと考えられている。

奈良時代には、中央の完全な支配下に入ったが、北方のエミシに対する軍事上の要衝、出羽の国への交通の要衝として「色麻の柵」が設置された。やがて中央政府によって「色麻郡」として建郡され、色麻柵は開拓、防備の中心地となった。

この当時、東北地方の太平洋側で、大和朝廷の支配下に置かれた地域を、当時「陸奥国」と呼び、そして日本海側を「出羽国」と呼んでいた。この両国の軍事的連携を強固にし、朝廷の東北での支配を拡大するために、両国の軍事的直道の確保が急務であった考えらる。この陸奥と出羽を結ぶ直道の確保の任にあたったのが、当時、多賀城に常駐し、両国を監察する最高位按察使の職にあった将軍大野東人(おおのあずまひと)だった。

大野東人は、天平9年(737)2月、多賀城を出発し、色麻柵を拠点とし、騎兵196人と約6000人の兵を色麻に集結させた。そして、3月に出羽国を目指して奥羽山脈を越えて、1日で出羽国の大室駅に達したと伝えられる。

柵跡は、愛宕山北方と河童川との間の地域であるが、現在は田園地帯となっており、柵跡を見ることはできない。