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宮城県色麻町小栗山字上山下

震災前取材

この五輪塔については、次のような伝説が伝えられる。

鎌倉時代の頃、天が岡に居を構えた北山刑部大正氏衡(たいしょううじひら)は、反逆の兵を挙げ、黒川付近まで勢力を伸ばしてきた。 里人らはこれにおびえ、領主を通して国府に氏衡征伐を乞い、これが聞き入れられ、都から将軍藤原清経が遣わされた。

里人らは勇みたち、清経のもとに、たちまち5千騎余りが馳せ参じた。氏衛はこれに驚き、小野田街道沿いの所々に 兵を配し、防衛を固め清経軍を迎え撃った。

清経軍は、頑強な抵抗を受けながらも、黒川を制圧、大衡に駒を進め激流の荒川越えには苦戦をしいられつつも、山崎高根の堅陣をぬき、南山にて激戦を交え、反逆軍の残党を岳山の奥深く敗走させた。さらに、清経軍は道なき道をきこりを案内にたて、日の傾く頃大滝付近に達した。

大滝付近で兵を休め、自身も滝の眺めに疲れを忘れた頃、清経は、敵の放った矢を受けてしまった。清経はわずかの部下ときこりに支えられ下山したが、傷は深く、清経は我が身これまでと覚悟を決め、「われこそは、この地にあって北山・南山の守り神とならん、この地に埋めよ」と言い残し 没した。