震災前取材

岩手県住田町世田米字子飼沢

 

この谷間には、江戸時代末期から大正時代にかけての約1世紀の間製鉄所があり、工場、飯場がところせましと並んでいた。数百人の職工が働き、数百台の荷馬車が出入りしていた。

跡地は、大股川に沿って、最大幅70m、長さ500mにわたって残り、石組みの水路や高炉付属の石垣、煉瓦やコンクリート礎石が残る。

伊達藩士の三浦乾也は、慶応3年(1867)、藩の命により洋式高炉数基を築いた。江刺から餅鉄鉱石を運び製鉄を始め、釜石橋野高炉の大島高任の技術指導をも受けて、多くの人夫を使い増産に励んだ。

明治を迎え官営となり、引き続き洋式高炉は稼動し、南部鉄器の原料として水沢に運ばれた。大正11年(1922)鉄の価格が暴落し閉山された。