震災前取材

岩手県住田町上有住字櫃割

 

葛西領気仙二十七城の内の一つで、米崎城主千葉氏の支族の、千葉内膳太夫盛行など、代々千葉氏の居城だった。葛西領の最北端にあり、遠野からの侵入を防備し、堅城として知られた。

奥州葛西六郡の拠点となった城郭で、連郭式縄張りで築城された山城で、東西500m、南北250mに及び、本郭、二の郭、土段、空堀の遺構を残している。北方に樋ノ口城、西方に平田砦の出城を有し、狼煙の合図で出陣したと伝えられる。

豊臣秀吉の奥州仕置により葛西氏は滅亡し、この地は伊達領となった。この地にあった千葉一族は伊達氏に従ったものと思われ、その後の城主も千葉一族が引き継いだと思われる。

慶長6年(1601)3月、遠野の領主だった阿曽沼広長が南部利直の謀略により遠野を追われ、伊達領の世田米に逃れていた。広長は、伊達政宗の後援を受けて、気仙勢を借り受け遠野に攻め込む準備を進めていたが、遠野の鱒沢左馬之助広勝が率いる軍勢は、その機先を制すべく平田城付近にまで進出、広長引きいる気仙勢がこれを迎え撃った。

このときの気仙勢の主将は当時の上有住城主の浜田喜六で、知らせに平田に駆けつけ、気仙勢と遠野勢は激戦になった、遠野方の主将の鱒沢左馬之助は気仙勢に討たれ、気仙勢の浜田喜六も遠野勢に討たれ、結局双方ともに兵を引いた。
その後、この地域は伊達藩の直轄地となり、上有住城は廃されたと考えられる。