震災前取材

岩手県陸前高田市米崎町字地竹沢

 

 

普門寺は、京都臨済宗建仁寺の栄西和尚の弟子の記外和尚の開山による。記外和尚は、宋に渡り仏法を収めた。帰朝の際に、宋の帝から種々の宝物を賜り、現在の本尊観音もそのときの五種の宝物のひとつであると云う。仁治2年(1241)、南海よりこの地の浜田浦に着いた。当時のこの地の領主は、安倍定俊で、定俊は寺を創立し、記外和尚を迎え、観世音を安置した。

その後、仁治年間(1240~43)より寺は荒廃したが、永正の始め頃(1504頃)、浜田米ヶ崎の城主千葉宗綱が、稗貫郡大興寺住職如幻和尚を招き、廃寺を整えこれを伽藍とし中興した。

・この寺に住むものがなくなり、荒廃していた時期について、この地には次のような伝説が伝えられる。

この寺に、何人かの僧が訪れ、住み始めるのだが、ものの半年も立たないうちに次々に去って行く。別にこれといってはっきりとした理由は見当たらなかったが、うわさによると、寺内に悪霊がさまよっているとのことであった。

ある年の夏、どこからともなく、諸国を巡歴してきたという一人の旅僧が訪れ、「由緒ある寺を、空寺にしておくのはもったいない。しかも僧たるものが、悪霊を恐れて住めぬとは、まことに情けないこと……」と、単身この寺に住み込んだ。村人たちは、「もの好きなお坊さんもいるものだが、さてこの和尚、いつまでいることができるだろうか」と、大いにあやしんだ。

僧は、村人達に頼んで、寺を修理してもらったりしたが、村人たちは、明るいうちは真面目に働くのだが、日が暮れてくると、我先に家へ帰ってしまう。僧は「何がそんなに恐ろしいのか」と、村人の臆病さを笑っていた。

ある時、この辺では見かけたことのない美少年が寺を訪ね、「寺の小僧に使ってくれ」と言う。再三断ったが、あまり熱心なので断りきれず、翌日から少年は小僧として寺で暮らすことになった。少年は、なかなかの働き者で、かげひなたなくよく働いたので、僧はすっかり気にいってしまった。

この寺から一里ばかり離れた村里に、美しい少女が母親と二人で住んでいた。この少女は毎日、近所の使い走りなどをして母親を養っていたが、ある時この寺の小僧と知り合いになり、互いに、憎からず思う仲となった。しかし少女は、小僧の体におかしな匂いのあることに気付いた。しかも、手足の動きがヌラリクラリとしている。少女は、母親から聞いた話で、「山の主の大蛇が、山伏に化けて里の娘に近づく」という話に思い当たり、万一の折にと針を一本しのばせていた。

日を追うにつれ、少女はこの小僧に不可思議な思いを募らせ、ある日意を決し、かねて用意の針を小僧の胸にズブリと突き刺した。すると、小僧は「ウォーッ」と一声、獣のようなうめき声を発し苦しみはじめ、、本性をあらわし美しい少年の姿はどこへやら、小牛ほどもある大ムジナとなり、見るも奇怪な姿で山の奥へ逃げて行った。

ある日のこと、一人暮らしにかえった僧は、朝から頭が重く感じ、「いやに陰気な日よ」と思っていると、急にあたりがうす暗くなってきた。そしてたとえようのない妖気が漂ってきた。背すじを冷たいものが走り、じっと息を押しころしていると、大音響とともに、大津波がゴウゴウとうなりを立てて押し寄せてきた。こんな高台まで来るはずがない、さては悪霊のいたずらかと、心をこめてお経を唱え出した。すると、青白い顔をした、とても生きた人間とは思えない様子で、かの里の少女が本堂にころげこんできた。少女は、自分の針で死んだ大ムジナの亡霊に日夜なやまされ続け、見る影もなくやつれ果てていた。

少女の後を追いかけるように、本堂に大波が押し寄せてきたが、僧は少女を小わきに抱え、大波に向って大かつを発した。すると逆巻く怒涛が真ん中からプッツリと切れて、跡形もなく静まりかえってしまった。回りにはおびただしい「ムジナ」の死がいがさらされていた。

この事を伝え聞いた村人たちがかけつけたが、僧の手厚い看護にもかかわらず、少女はとうとう息を引きとってしまった。僧は村人達とともに、少女を厚く弔い、山の主であったムジナをもねんごろに葬った。

後に、この近辺の鎮護と忌払いの意味から、寺に不動像を祀ったが、このことにちなんで、「波切不動明王」と呼ばれるようになった。

・また、この寺の中興の祖である如幻和尚については、次のような伝説が伝えられます。

大興寺の和尚があるとき夢を見た。その夢に神人が現れ、「昨日葬られた新妻の棺中に一人の赤子がいる。汝、これを養い成長させるべし」と告げて消えた。和尚は驚き、ただちに墓地に行き、棺中より赤子を抱き上げ、愛育した。長ずるにその才は衆人の及ぶものではなく、後に和尚の跡を継いだという。これが如幻大和尚だと伝える。

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