岩手県九戸村長興寺

震災前取材

永正元年(1504)、九戸信仲が奥州巡錫中の加賀金沢宗徳寺大陰恵善に請い、一族の菩提寺として創建した。

九戸政実は南部宗家の後継選びから南部信直と対立していた。信直は九戸政実が、天下の惣無事令に違背するものとして豊臣秀吉に訴え、九戸に奥州仕置軍を引き込んだ。

豊臣秀次を総大将に、蒲生氏郷や浅野長政らの軍6万5千が九戸城を囲んだ。政実ら城方凡そ5千は、10倍以上の敵に対し敢然と立ち向かい、仕置き軍の犠牲は日々増えるばかりだった。

そこで、浅野長政らは謀略を用い、九戸氏菩提寺の長興寺住職の薩天を呼び、本領安堵と、家臣たちの助命を条件に開城を説得させた。この説得に九戸政実らは応じたが捕らえられ、現宮城県栗原市三迫に引き立てられ、天下の大罪人として斬首された。

開城後間もなく九戸城には仕置軍が突入し、兵はもちろん女子どもまで二の丸に押し込められ火をかけられ、なで切りにされた。

利用されたと知った薩天は後に、盛岡の南部家菩提寺である東禅寺で抗議のため自害したという。長興寺の過去帳に薩天和尚の名前はない。

九戸氏の没落とともに寺運は衰え、元禄6年(1693)山火事に類焼して焼失した。その約150年後の嘉永5年(1852)に現本堂が再建された。境内にある樹齢約800年の大銀杏は、九戸政実が出陣の折に手植えしたとも伝えられている。