岩手県大船渡市三陸町越喜来字杉下

震災前取材

 

この城の築城時期は南北朝期の建武年間(1334~36)で、築城者は多田左近将監と考えられているが、詳細は定かではない。

城は越喜来の中心地に位置し、古墳形をした地形で、比高はおよそ35m、主郭の広さは東西25m、南北50mの楕円形で、土壇が数段ずつ四方に作られている。最下壇の土壇の東側および南側は、主郭の2倍以上の広さがあり、その南側に三陸大王杉があり八幡神社が祀られている。

多田満仲から八代多田行綱の三男の多田三郎定綱が、建保年間(1213~19)越喜来に下向したものと伝えられている。多田行綱は、源平合戦の一ノ谷の戦いなどで、源義経軍の一翼の多田源氏棟梁として活躍したが、その後、義経と近い立場にあったことで源頼朝から疎まれ、所領は没収となった。このとき、一族郎党はばらばらになり、各地に四散したと思われ、このような中で多田定綱はこの地に入ったと考えられる。

この地の鬼伝説が、多田氏に関わるものとなっているのは、この地に多田氏が入った時期の争いに起因するものかもしれない。いずれにしても、多田氏はこの地に入り、その後100年以上にわたって、越喜来、吉浜を開発し、この本丸城を拠点とし、南に平田城、西に高森城、北に小出城、北東に吉浜高舘城を配し、この地域を支配した。

南北朝期には、総力を結集して十数年にわたり南朝方の北畠顕信を助けたが、南朝暦元中年間(1384~92)にいたり南朝は敗退した。明徳3年(1392)には南北朝が合一し、世は足利氏の時代となり、この地の多田一族は四散したものと考えられる。