岩手県大槌町大槌第三十二地割

震災前取材

 

別名:浜崎城

大槌城は、大槌川と小槌川に挟まれた、比高約130mの南東方向に延びた丘陵頂部に位置する山城で、東西約700m、南北約100mに及ぶ。頂部を主郭とし、東側尾根上に階段状に二の郭、三の郭、四の郭を配した山城である。四の郭の 南東側には、物見と思われる高館が配され、主郭の西側搦手には、大空堀で区画された西口砦、その南には南口砦が配され、さらに丘陵基部は堀切で分断されている。

大槌城は、南北朝期に、遠野横田城主阿曽沼朝綱の次男大槌次郎がこの地方を分知され(異説あり)、その居城として築いたとされる。

阿曽沼氏は、鎌倉初期に遠野郷の地頭となり、鎌倉末期に本格的に遠野郷に下向し、除々に釜石、大槌方面に勢力を拡大し、一族を分知したと考えられる。宗家の阿曽沼氏は南朝方として活躍していたが、大槌氏は次第に北朝方として宗家から独立していったと思われる。

永享9年(1437)に勃発した永享の乱で、大槌孫三郎は、気仙の岳波太郎、唐鍬崎四郎兄弟とともに遠野阿曽沼氏の横田城を攻撃した。このとき、阿曾沼氏の家臣達は中立の姿勢をとったため、阿曾沼氏は三戸南部氏に救援を求め、南部守行が阿曽沼氏を救援し、大槌気仙連合軍を撃退した。

逆に南部阿曽沼軍は大槌城を包囲、大槌氏はこの城に篭り、その天然の要害を生かして抵抗した。その結果、大物見に出た南部守行が流れ矢に当り戦死し、両軍ともに兵を退き、結局、大槌氏が謝罪する形で和睦が成立した。

戦国末期には、宗家の遠野阿曽沼氏は、広郷の代に遠野十二郷を支配する大勢力に成長し、大槌氏はこの阿曽沼氏の傘下に組み込まれ ていたが、小田原に参陣することができず、奥州仕置きによって南部氏に組み込まれた。天正19年(1591)の九戸の乱では、大槌孫八郎広信は、阿曽沼広長とともに三戸城主南部信直軍に従軍している。

慶長5年(1600)、中央集権化を目指す南部氏の謀略により、阿曽沼広長は遠野を追われ世田米に移り、伊達政宗の支援を受けて遠野奪還を狙った。大槌孫八郎はこの広長を支持し、広長とともに遠野郷に侵攻した。しかし南部氏の支援を受けた鱒沢氏 らに敗れ大槌城に退却、大槌城は南部軍に包囲され降伏し、自らは伊達領に逃れた。

孫三郎の跡は大槌政貞が継ぎ、関ヶ原の戦いの際には、稗貫和賀一揆で南部利直に従い活躍、大槌城に戻ることを許された。政貞は、この地の振興をはかり、三陸海産物の江戸向け出荷の橋渡しをして商路を開拓、塩蔵の南部鼻曲がり鮭はその代表的な商品だった。また政貞は、馬術の名手で、剛勇の誉れも高かったが、逆に、有力外様武将の活発な動きは南部氏にとって愉快なことではなく、南部利直に警戒された。

このため、政貞は謀反の疑いをかけられ、元和2年(1616)、利直に「人を容易に乗せぬ馬がある」と誘い出され、刺客に襲われて殺害された。ここに大槌氏は滅亡し、280年の歴史を閉じた。

大槌氏滅亡後、大槌城には城代が配されたが、寛永9年(1632)からは大槌代官所の支配するところとなり、その後、万治2年(1659)、南部氏の命により取り壊された。

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