岩手県九戸村長興寺

震災前取材

九戸神社の創建は承和9年(842)と伝えられる。古くは北辰妙見、九戸妙見と称したが、明治元年(1869)九戸郡一ノ宮の故をもって九戸神社と改称された。

九戸神社は、九戸村の総鎮守でもあり、九戸家代々が戦勝を祈願した神社として知られている。また、二体の仏像や奉納剣、泥絵、九戸政實ゆかりの棟札などの文化財が多くおさめられている。
九戸氏は南部氏の始祖光行の六男、行連を祖とする南部氏の一族で、代々北奥羽の九戸を領知し九戸氏を称した。

明応年間(1492~1500)に九戸光正の代にその勢力は顕著となり、久慈氏のほか姉帯、金田一、浄法寺氏と婚姻関係を結び、さらに南の福土氏、斯波氏とも婚姻関係を結び勢力を拡大した。

天正8年(1580)、三戸城主南部二十四代晴政が死去し、その嫡男晴継も相次いで死去した。南部はその跡目を巡り、田子信直支持派と九戸一派とが対立した。混迷の中、田子信直が南部二十六代目を継いだ。

天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置により、南部の惣領権は南部信直が握ったが、九戸政実はこれを不満とし、葛西、大崎、和賀、稗貫氏の遺臣らが蜂起した機に乗じ挙兵した。南部信直は苦戦を強いられ、豊臣秀吉に訴え、秀吉は豊臣秀次を総大将として6万を超える奥州再仕置軍を九戸に向けた。

九戸勢は5千人と少なかったが九戸城に篭城し善戦した。冬の訪れが近い中、焦った中央軍は謀略を用いて開城させ、九戸勢を撫で斬りにした。九戸政実らは、宮城県三迫で処刑され、九戸氏は滅亡した。