岩手県釜石市栗林町

震災前取材


三浦命助は、全国で最大規模の一揆の三閉伊一揆の指導者。

命助は、文政3年(1820)この地の釜石栗林村の肝煎の分家定助の長男として生まれた。10歳前後に、遠野で四書五経を習ったと云う。

この地は山間の寒冷地であり、米作だけで生計を立てることは出来ず、畑作と駄賃稼ぎ、山仕事で生計をたてていた。命助も、17歳ごろから院内銀山に出稼ぎに出ていた。

19歳の時に父定助が亡くなり栗林村へ戻り婚姻、その後、三閉伊通や遠野、気仙にて荷駄商いも始めた。この頃は南部藩の財政難から、領内には重税がかけられ一揆が頻発していた。弘化4年(1847)には大規模な一揆が起きたが、命助はこの時の一揆には関わらなかったと思われる。

打ち続く一揆では、一揆勢は一定の成果を挙げ、それを藩により反故にされるという事態が続いていた。そのような中、嘉永6年(1853)、ペリーが浦賀に来航した年、三閉伊一揆が起こった。前年から、岩泉袰綿村やこの栗林村では、一家をあげて気仙郡に移り住もうという動きがあったり、一揆が起こるという風聞が流れたり、不穏な状況が続いていた。そしてこの年、ついに一揆は始まった。

田野畑村から始まった「狼狩」とも「手間働き」とも云われた一揆の集団は、安家村を抜け、宮古へ入り、山田町へ達する頃には、1万人を超えていた。各村ごとに目印の組印を設け、「小○(こまる)」と書いた幟を持って行動し、休息する場所では勝手に飲食をし、商家から品物やお金を供出させ南下した。これに、大槌や橋野、そしてこの栗林からも、34歳の命助を頭人として多くの者が加わり、釜石を出立する頃には、女、子供、山伏、僧侶を含め1万8千人にも膨れ上がった。

釜石を出た一揆勢は、そのまま仙台藩領に越境し、仙台藩からの圧力で南部藩側に要求を飲ませるという戦法をとった。命助は、一揆成功のため、田野畑村多助らに協力し、百姓代表となり交渉し頭角を現した。命助らは仙台藩に対して、政治的要求3ヶ条と具体的要求49ヶ条を提出した。それは、「三閉伊通の百姓を仙台領民として受け入れ、三閉伊通を幕府直轄地か、もしできなければ仙台領にしてほしい。役人が多いから減らしてほしい。金上侍をもとにもどしてほしい。御用金その他臨時税が多すぎる。租税請負を廃してほしい」などであったと云う。

南部藩は、百姓の引き渡しを仙台藩に要求したが、黒船来航により一揆どころではなくなり、仙台藩は、すべての百姓を仙台藩のあずかり百姓とした。南部藩もやむを得ず、一揆の要求の多くを受け入れ、また一揆指導者の処分をしないことを約し一揆は収束した。

命助らは帰村し、一揆成就の謝礼に仙台領塩竈神社へ代参し額を奉納した。しかし帰村後、村役人交替をめぐる村方騒動にまきこまれ牢に入れられたが脱走し、仙台領へ出奔、仙台領で僧となり修業し、本山の免許を得るため京都へ向かい、そこで五摂家二条家の家来格になった。安政4年(1857)、大小を帯し家来を連れ二条殿御用の絵符を立て盛岡藩領に入ろうとしたが捕らえられ投獄された。

7年間獄中にあり、牢内から、経文や妻や子供への意見を書きつらねた「獄中記」を家族に残し、明治維新を見ることなく未決のまま牢死した。