岩手県釜石市橋野町第二地割

震災前取材

 

安政4年(1857)、大島高等の技術指導によって、釜石大橋の値に実験用の洋式高炉が築造され 、鉄の記念日になっている12月1日に出銑に成功した。これを受けて、翌年、この地に三基の高炉が築造された。

当時日本には、アメリカのペリーが来航し、諸藩は海防強化のため、大砲鋳造を試行錯誤していた。しかし、当時の製鉄方法は、砂鉄と木炭を原料としたタタラ製鉄で、大砲には不向きで、岩鉄からの製鉄法が必要だった。

盛岡南部藩士の大島高任は、釜石の豊富な鉄鉱石に着目、この鉄鉱石を原料とし、燃料となる豊かな森林資源、送風装置の動力源となる水流を利用し、洋式高炉を築造、大橋高炉の操業に成功し、これが日本における近代製鉄の幕開けとなった。

この成功により、安政5年(1858)、この地に三座の高炉が建設された。これらの高炉は、すべて鉄鉱石を原料とするものだった。一座の高炉は、次の操業にかかるまで、30~40日の改修が必要で、三座を交互に操業し、年間実働約250日の操業能力を持ち、盛業時には、年間約940トンを生産し、三番高炉は明治27年まで操業した。

この日本の近代鉄鋼業は、深い山々に囲まれたこの地にその発祥をみ、やがて明治維新を迎えると、釜石官営製鉄所の発足となり、釜石製鉄所の礎となった。

釜石地区には、このほか、佐比内に二座、栗林、及び砂子渡に一座の合計十座が、良質豊富な鉄鉱石の産地を背景に、いずれも高任の指導によって建設された。