岩手県八幡平市長者前

2013/06/10取材

昔、現在の鹿角市八幡平小豆沢の根本というところに、一人の若者が年老いた父親と暮らしていた。若者は正直者で、村でも評判の働き者であったが、いつも貧乏暮らしをしていた。

また、そのころ、現在の鹿角市比内独鈷の村には一人の娘が住んでいた。娘はやさしくとても親孝行だったが、両親は数年前に亡くなり、毎日悲しみをこらえながら暮らしていた。

ある晩のこと、娘の夢枕に白髪の老人が立ち、「これからすぐに家の前の小川を下りなさい。そして、大きな川にぶつかったら川上の方向へ進んで行きなさい。日が暮れるころ一人の若者と出会うだろう。その若者は働き者で人の倍も良く働く若者である。その若者と夫婦になるがよい」と告げられた。

信心深い娘は、これは神様のお告げだと感じ、翌朝早く住み慣れた家を出てお告げの通り小川を下り、大きな川に出ると川上の方向へ進んでいった。日が暮れるころ、小豆沢にたどり着きはしたが、道に迷い山道へ入っていくと、木を切っている一人の若者を見つけた。

若者の働きぶりは、木を1本切ると2本倒れ、2本切ると4本倒れるほどであり、娘はこの若者こそが神様に告げられた人だと思い、この若者に夢でのお告げの内容をすべて話した。この話を聞いた若者は、娘を家に連れて帰り、父親にそのことを話して相談すると、父親も喜んで賛成してくれたので、二人は夫婦になることにした。

父親と若夫婦はまじめに働き、仲睦まじく暮らしていたが、正直すぎるせいか貧乏暮らしは相変わらずだった。ある年、正月だというのに神様にお供えする餅や酒もなく、一家は、「正月だというのに神様へのお供え物一つできない」と悲しんだ。

その晩、若者の夢の中に白髪の老人が現れ、「われは大日神である。この地はお前たちの住む地ではない。ここから川上に進んで行くと開けた場所があるのでそこに住むがよい。その場所では、多くの田や畑を耕して長者になることができるだろ」と告げられた。若者は、はっと目をさまし、そばに寝ていた妻を起こして今見た夢を話すと、妻も同じ夢を見ていたとのことだった。

二人は、神様に感謝し、祭壇を作りわずかばかりのお供えをして、早速、翌日の正月2日、父親とともに三人で川上の方へ旅立った。日が暮れたころ、お告げのとおりの広い場所にたどり着いた。そこは現在の岩手県八幡平市田山の奥の平間田という地であり、三人はこの地で暮らすことにした。村では、最初はクズやワラビなどの根を掘り食べて暮らしていたが、しだいに田や畑を切り開いていった。

ある夏の暑い日のこと。畑で働いていた二人は木陰で昼休みをしていた。若者が暑さと疲れで、うとうと寝ていると、少し離れた岩の陰からダンブリ(トンボ)が飛んで来るなり、尾を若者の唇につけてまた向こうの岩の陰へ飛んで行き、また飛んで来ては尾をつけるというように、同じことを何度も繰り返した。妻は不思議に思いながら、そばで黙ってそのダンブリの様子を見ていた。

そのうちに、若者が目を覚まし、「ああ、俺は今、これまで飲んだこともないとても美味しい酒を飲んでいた。おまえにも飲ませたいなあと思っているうちに夢がさめてしまったが、今でも、その味が口の中に残っているよ」と唇を舌で舐めながら話した。妻は、「あなたが眠っていたとき、何度も向こうの岩の陰からダンブリが飛んで来てはあなたの口にしっぽをつけていましたよ」と、ダンブリの不思議な様子を話して聞かせた。

不思議なこともあるものだと思い、2人でダンブリが飛んで行った方へ行って見ると、岩の間から香りのよい泉がこんこんと湧いていた。泉の水を手に汲んで飲んでみると、それは、ほんとうにおいしいお酒であった。この酒は、飲むとたちまち元気が出てくる酒であり、この酒を飲んだ人はどのような病気もすぐに直り、長生きできるほどの酒であった。

二人は、そこに家を建てて住むことにした。この宝の泉の話は、四方八方に広まり、この水を求めて人々がしだいに集まってくるようになった。そして二人は、宝の泉のおかげで、金や銀、宝石がたくさん集まり、たちまち国一番の長者になった。

二人はその後、大きな屋敷を建ててたくさんの人々を迎え入れた。そして、その多くの人々が食べる米の白いとぎ汁が川下まで白く流れていくようになり、その川は後に米白川(米代川)と呼ばれるようになった。

二人は、どんな望みもかなえられるほどの長者になったが、40歳を過ぎても子供には恵まれなかった。このため夫婦は、子供が授かるように毎日毎日、大日の神様を拝んだ。ある時、その願いが通じたのか女の子が授けられた。その子は、しだいに賢く可愛らしい娘となり、秀子と呼ばれ、皆にかわいがられて大事に育てられた。

大金持ちになった夫妻は、ダンブリ長者と呼ばれるようになっていたが、正式に長者を名乗るには、朝廷のの許しがなければならなかった。あるとき長者夫婦は娘の秀子を伴い都に出向いた。天皇の下へ上がると、天皇は美しく成長した秀子をことのほか気に入られた。

夫妻は長者の称号を許され、天皇のたっての願いで、秀子は都に残り吉祥姫と名乗り天皇に仕え、後に妃になった。

それから年月を重ね、この地で幸せに暮らした長者夫婦もなくなり、宝の泉もやがてただの水となり、この地に住んでいた多くの人もいなくなってしまった。吉祥姫は、都でそのことを聞き、大変悲しみ、天皇に、「父と母は、夢に現れた大日神のお導きで、長者の位までいただけました。そのいわれを、ぜひ後の世まで伝えたいと存じます」と願った。天皇はこれを許し、使いの者を故郷の小豆沢へ派遣し、大日堂を建てさせた。

そして、大日堂では、長者夫婦が夢の中で大日神のお告げを受けて運が開けるようになった正月2日を祭日とし、都からは、踊りや笛、太鼓を教える人が大勢来て、大里、小豆沢、長峰、谷内の四地区の人たちが祭りの時に舞を納めるようになった。これが現在に続く「大日堂舞楽」と云う。

吉祥姫が亡くなると、吉祥姫の遺言どおり、故郷の大日堂のそばに吉祥姫の墓が建てられたと云う。

この地の長者伝説は、「養老伝説」に分類されるたわいもないものにも思えるが、その時代背景は継体天皇の時代の古墳時代後期にあたるものだ。公式的な仏教伝来以前の話でありながら、この地方一帯に広がる大日堂の由来にもなっている。また、その時代は、安倍比羅夫の蝦夷制圧の前であり、この地方一帯は、まだ大和朝廷の力が及んでいない蝦夷の文化圏であったはずだ。

大館市から八幡平市にかけての地域のほぼ中心には大湯環状列石があり、かなり古い時期から独自の文化圏を持っていたことは確実である。そう考えれば、「ダンブリ長者」とは、大湯環状列石からつながる、この地域の蝦夷の長であり、その娘が継体天皇の妃となったのは、中央政権が、蝦夷勢力を取り込もうとする証だったのかもしれない。

継体天皇の出自は「越国」と関わりがあり、その後、「越」の安倍比羅夫が、秋田の能代から米代川を上り蝦夷を制圧したこととも関わってくるのかもしれない。