岩手県岩手町川口

2012/07/09取材

別名:豊城

現在の川口中学校周辺に川口城はあった。古館川右岸の、標高236mの丘陵上に、古館川を天然の堀として建てられた平山城である。規模や構造は明確ではないが、西に北上川、南に古館川の崖地、北に丹藤川があり、天然の地形を利用した城館であり、古くは蝦夷館だったと思われる。

文治5年(1189)の奥州合戦の功により、相模の河村四郎秀清は紫波郡と岩手郡内の数郷の地頭職となった。秀清は、奥州合戦時にはまだ十三歳の元服前で千鶴丸を名乗っていたが特に参陣を許され、阿津賀志山の戦で功をたて、頼朝の命で元服し河村四郎秀清を名乗った。

河村氏は、北条執権政治のもとでは北条氏に従い、秀清は「承久の乱」に武家方として功をたてるなど活躍をしている。奥州には、その子や一族の時秀の子貞秀らが配置され、北上川東岸一帯に広まり、大萱生、栃内、江柄、手代森、日戸、渋民、川口、沼宮内の諸氏となった。

南北朝期には、相模の宗家は南朝方となり、奥州の河村一族も南朝方として北畠顕家、顕信に従った。しかし次第に北朝方の勢力は拡大し、高水寺城の斯波氏の隣に位置する河村氏への圧力は大きくなり、ついに河村氏は斯波氏に服するようになった。

戦国時代後期になると、南部氏が南下の動きを見せ始めた。天文6年(1537)南部氏が南下を始めると、河村党は斯波、稗貫、和賀氏らと連合して南部氏にあたった。天文9年(1540)、南部氏は石川高信を総大将として岩手郡の滴石城を攻略、その後も度々岩手郡に侵攻し、斯波氏は防戦につとめた。しかし、元亀3年(1572)、石川高信を総大将として、ふたたび志和郡に侵入、斯波氏は敗れ、その衰勢は決定的になった。

その後、南部氏宗家を石川高信の子の南部信直が継ぐと、南部氏は斯波氏に対してさらに攻勢を強め、斯波氏の内部分裂を機に南部信直はただちに南部軍を南下させ、斯波氏はたまらず瓦解し、その後滅亡した。

この斯波氏の存亡のとき、河村党は分裂したようだが、川口左近秀長は南部信直に臣従し、この地に4百石を安堵された。その後川口氏は、八戸南部氏の重臣として八戸に移った。<