岩手県盛岡市前九年三丁目

2012/05/16取材

厨川城跡と、厨川柵擬定地の天昌寺の中間に位置し、前九年の役では安倍軍がここに櫓を組んで見張ったと伝えられる。現在は、樹齢1,000年と言われるケヤキの古木と狐森稲荷神社がある。

この地一帯には、安倍一族の女子供の屋敷があったと伝えられ、安倍貞任の妻「袖萩」の屋敷もあったと伝えられる。

前九年の役は、当初、安倍氏優勢に戦いが進められていたが、源頼義は出羽の清原氏に助力を依頼し、清原氏の参戦により形勢は一気に朝廷側に有利となった。康平5年(1062)、安倍貞任らは、衣川の小松柵の戦いに破れ、拠点であったこの地の厨川柵に篭った。

そのとき、安倍勢はこの地に櫓を組んで、敵の動静を見張ったと いう。また、女性に絹の衣服を着せて、ここで歌い踊らせ、敵を挑発し、また味方を鼓舞したという逸話も残されている。