岩手県盛岡市玉山区渋民字渋民

2012/07/09取材

  • 石川啄木記念館

石川啄木記念館は、啄木が育った地に昭和45年(1970)に開館した。石川啄木の直筆書簡、ノート、日誌のほか、遺品などが展示されている。また敷地内には、旧渋民尋常小学校、旧斎藤家が移築されている。

啄木は、明治19年(1886)2月に、現在の盛岡市玉山区日戸に、曹洞宗常光寺の住職、石川一禎と妻カツの長男として生まれた。本名は石川一。翌明治20年(1887)、父がこの地の宝徳寺住職になったことから、一家で渋民村へ移住した。

渋民尋常小学校、盛岡高等小学校、岩手県盛岡尋常中学校(現盛岡一高)と進んだ。中学時代に、のちに妻となる堀合節子や金田一京助らと知り合った。この頃『明星』を読んで与謝野晶子らの短歌に傾倒、また上級生の野村胡堂らの影響を受け、文学への志を抱き、短歌の会「白羊会」を結成した。

盛岡尋常中学校を中退し上京、作歌をしながら出版社への就職を試みるがうまく行かず、結核の発病もあり、明治36年(1903)父に迎えられて故郷に帰った。その後も作歌を続け、啄木名で『明星』に長詩「愁調」を掲載、歌壇で注目される。

明治37年(1904)、青森、小樽を旅行し、その後再び上京し、翌明治38年(1905)、詩集『あこがれ』を出版した。またかねてから恋愛中だった堀合節子と結婚した。

盛岡で父母、妹光子との同居で新婚生活を送ることになったが、父一禎は金銭トラブルで住職の座を失い、一家の扶養は19歳の啄木が負うようになる。『岩手日報』にエッセイなどを連載、また文芸誌『小天地』を出版し、地方文芸誌として文壇の好評を得るが、資金問題で継続出版はできなかった。

明治39年(1906)、妻と母を連れて渋民村に戻り、渋民尋常高等小学校に代用教員として勤務、長女京子も生まれ、生活は窮乏していたがしばし落ち着いた生活が続いた。しかし、明治40年(1907)、函館の松岡蕗堂らと知遇を得、新生活を北海道で開こうと教職を離れ、単身函館にわたったことから啄木の放浪が始まった。

北海道では臨時雇いや代用教員などをしながら、函館、札幌、小樽、釧路などを転々とし、結局は東京での創作活動へのあこがれが募り、釧路を離れる決心をする。東京には、与謝野鉄幹など、啄木の才能を認める者も多かったが、生計のため小説を売り込むが成功せず、逼迫した生活の中、後に広く知れ渡る歌を作っていった。

東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる
たはむれに 母を背負ひて そのあまり 軽きに泣きて  三歩あゆまず

東京では、中学で上級生だった親友の金田一京助が、自分の家財を売ってまで金銭を含むさまざまな支援を行なっている。

明治42年(1909)、就職活動が実り『東京朝日新聞』の校正係となったが、浅草に通い娼妓と遊ぶなど遊興三昧の生活を送り貧困生活は続いた。この年に妻子、父母が上京し、再び同居するようになったが、家族にとってその暮らしは決して幸福なものではなかったようだ。

明治43年(1910)、第一歌集『一握の砂』を出版した。

ふるさとの 山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな
石をもて 追はるがごとく ふるさとを 出でしかなしみ 消ゆる時なし
はたらけど はたらけど猶 わが生活 楽にならざり ぢつと手を見る
いのちなき 砂のかなしさよ さらさらと 握れば指の あひだより落つ
ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく

この間啄木は大逆事件を調べていく中で社会主義に傾倒していく。しかしこの時啄木の体は肺結核が進行し、妻も結核を患い療養の為に去り、父は家出、母も明治45年(1912)に没し、自身も同年4月13日に肺結核により死去した。享年26歳だった。

啄木は、徴兵の身体検査にも通らなかったように虚弱であり、性格も自堕落だったように思われる。しかしながら恐らくは性格の弱さからのものだろうその優しさは、人を強く惹きつけるものがあったのだろう。

友人の土岐哀果は、死の数日前に、啄木の第二歌集『悲しき玩具』を出版することを伝え、啄木の死後も啄木を世に出すことに尽力した。また妻や家出をした父親や、友人の若山牧水らに看取られ逝ったことは、啄木の最後のささやかな幸せだったかもしれない。

呼吸すれば 胸の中にて 鳴る音あり 凩よりも さびしきその音
眼閉づれど 心にうかぶ 何もなし さびしくもまた 眼をあけるかな
新しき 明日の来るを 信ずといふ 自分の言葉に 嘘はなけれど

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です