岩手県盛岡市高松一丁目

震災前取材

高松の池は、盛岡城下創建の際に造られた堤である。盛岡城築城以前は、上田沼と呼ばれた沼があり、周辺は、芹、ジュン菜、蓮が生い茂る湿原地だった。

当時盛岡は、北上川、中津川、雫石川の合流点にあり低湿地帯で、築城にあたっては、付近一帯の治水が重要な課題だった。その内の一つがこの沢の治水で、この沢が出水すると、盛岡城下には重大な支障が生ずることが懸念された。

このため、盛岡藩主南部利直は、上田沼のあたりに4ヵ所の堤を設け、治水と同時に、この地一帯に新田を開き、その用水として利用した。

明治22年(1889)、盛岡市が市制施工となると、上田堤の公園化が進められ、明治39年(1906)には、日露戦争記念事業として、市民の寄付により、吉野桜千数百本が植えられ、桜の名所となった。大正中期、さらに公園の整備がなされ、名称を「高松の池」「高松公園」とし、現在も市民の憩いの景勝地となっている。