岩手県盛岡市南大通三丁目

震災前取材

この円光寺にはお蓮の伝説を伝える首塚がある。

お蓮は、川原町で材木商を営む岩井与一郎の娘で、南部藩の奥女中だった。しかし延宝3年(1675)、岩井与一郎は切支丹であったためその罪を問われ、小鷹刑場で斬首され、その首はさらされた。お蓮は夜半、ひそかに闇夜にまぎれて父親の首を盗み、北上川を渡り寺々を巡り供養を頼んだ。

しかし、切支丹として処刑された者の首を供養する寺はなく、お蓮は悲嘆にくれていたが、円光寺の良観和尚は、「寺の運命を賭すとも死者の回向は和尚の勤め」として供養し、お蓮は良観和尚の勧めで自首した。

その後、盛岡藩第四代藩主南部行信は、「罪は罪」としながらも、逆にお蓮の孝心の深さを知りこの父子に心を打たれ、寺もお蓮もとがめることなく、お蓮を側室に迎え入れた。
その後、切支丹として処刑された親の菩提のために首塚を建て観音像を遷座したと云う。