岩手県盛岡市安倍館町

震災前取材

厨川城は、かつての厨川柵の一画だった、盛岡市中心部の西部の、北上川の断崖上に築かれた中世工藤氏の居館。

かつてはこの地の西側には厨川が流れており、北上川と厨川の合流点に突き出た段丘の要害の地を利用し、南から南館、中館、本丸、北館、外館、匂当館の6つの曲輪が並び、西側には帯郭が巡り、各郭の周囲は深い空堀で囲まれていた。空堀は現在も良好な状態で残っており、その幅は10~20m、深さは8mほどだったと思われる。

この地は、かつては安倍氏の厨川柵とされていたが、この厨川城と現在の天昌寺付近を含む広範な地が厨川柵で、この地はその一画だったと現在は考えられている。しかし、詳細は定かではないが、この地に城館が築かれた最初は安部頼時の時代であったろうとは思われる。厨川は、前九年の役の最後の決戦の地となり、安倍氏は敗れこの地を離れた。

その後、この地は清原氏の支配するところとなり、さらに後三年の役の後は、藤原と姓を戻した清衡が、平泉を拠点としこの地を支配した。しかしその奥州藤原氏も、文久5年(1189)、源頼朝の奥州征討で滅亡し、この地にはその功により伊豆から工藤行光が地頭として入った。

工藤氏はこの地に土着して代々地頭職を勤め、「岩手殿」とも呼ばれた。当初、この近くの里館を拠点にしていたが、より堅固なこの地に、新たに厨川城を築き居館とした。工藤氏はまた、この地の精神的支柱である岩手山信仰を司り、「岩鷲山大権現」の大宮司となり、安倍氏が厨川柵に祀っていた祈願所を継承した。

厨川氏はその後、元弘2年(1332)に南部家に臣従したが、その後も城主を勤め、不来方城、雫石城とともに、岩手郡の拠点的な城の一つであった。天正20年(1592)、豊臣秀吉による一国一城令により廃城となったと考えられる。