岩手県盛岡市大慈寺町…大慈寺

震災前取材

  • 原敬の墓
    原敬の墓

原敬(はらたかし)は、立憲政友会第三代総裁で第十九代内閣総理大臣。「平民宰相」と呼ばれた。

原敬は、安政3年(1856)2月、現在の盛岡市本宮で、盛岡藩士原直治の次男として生まれた。原家は祖父が家老職であり盛岡藩の上級武士の家柄だったが20歳のときに分家し平民籍となった。

明治3年(1870)、原は再開された藩校「作人館」に入り、翌年15歳で、戊辰戦争敗戦の屈辱を胸に秘め上京し、費用がかからないということでカトリック神学校に入学した。明治9年(1876)、司法省法学校を受験し受験者中2番の成績で合格したが、在学中に寄宿舎の待遇改善運動に関係したという理由で退校処分となった。

その後、原は中江兆民の仏学塾に在学、明治12年(1879)郵便報知新聞社に入社、次第に論文も執筆するようになった。しかし、大隈重信の一派が同社の言論を占めていく中で、彼らと反りが合わずに退社した。

その後、藩閥政府の高官が原に目をつけ、御用政党の機関紙「大東日報」の主筆となった。これが縁で原は藩閥に接する機会を得、明治15年(1882)外務省に採用された。原は、天津領事に任命され、明治18年(1885)には外務書記官としてパリ駐在を命じられ、およそ3年余りパリ公使館に勤務、帰国後農商務省参事官、大臣秘書官となった。駐米公使だった陸奥宗光が明治23年(1890)に農商務大臣になると、陸奥の引きで原の運命が拓けることになる。

第二次伊藤内閣が発足すると陸奥は外相に就任し、彼の意向で原は通商局長として再び外務省に戻った。さらに日清戦争後の明治28年(1895)には、外務次官に抜擢された。当時、陸奥外相は病気療養中であったため、西園寺公望文部大臣が外相臨時代理を兼任したが、実務は原がとることとなった。翌明治29年(1896)、陸奥が病気のため外相を辞任、第二次松方内閣が成立し大隈重信が外相になると、大隈嫌いの原は外務省を辞め、明治30年(1897)に大阪毎日新聞社に入社し、翌明治31年(1898)には社長に就任した。

明治33年(1900)、伊藤博文が立憲政友会を組織すると、原は伊藤と井上馨の勧めでこれに入党し幹事長となり、同年12月には伊藤内閣の逓信大臣として初入閣した。この当時の原は、党内への影響力保持のためか、貴族院議員への推薦を依頼したり、爵位授与を働きかけたりと、後年の「平民宰相」の意識はまだ無く、現実主義者の側面が垣間見える。

明治34年(1901)、桂太郎が組閣すると原は閣外へ去り、その後は、党内分裂の危機を防ぎながら政友会の党勢を拡大し党内を掌握していった。明治35年(1902)、第7回衆議院総選挙で、盛岡市選挙区から立候補し衆議院議員となった。

日露戦争が始まった明治37年(1904)12月、桂太郎首相は政局の安定を図るため、政友会との提携を希望して原と交渉を行い、政権授受の密約を行った。翌明治38年(1905)桂内閣は総辞職し、密約通りに政友会の西園寺公望内閣が誕生し原は内務大臣となった。これ以降、桂と政友会との間で政権授受が行われ、政治的安定期を迎えることになり、原はその中で政友会の勢力を拡大していった。大正3年(1914)には、西園寺の後任として第三代立憲政友会総裁に就任した。

原は、戊辰戦争時には朝敵となった南部藩出身であり、薩長主導の藩閥政治は当然嫌っていた。だからこそ自由な選挙により議会の多数を占める政党に身をおき、藩閥と関係ない近代的官僚機構をつくっていった。内務大臣時代には、藩閥によって任命された当時の都道府県知事を集めてテストを実施、東京帝国大学卒の学歴を持つエリートに変えていった。

シベリア出兵に端を発した米騒動により寺内内閣が総辞職に追い込まれると、大正7年(1918)原内閣が成立した。この内閣が、日本初の本格的政党内閣とされるのは、原が初めて衆議院に議席を持つ政党の党首という資格で首相に任命されたことによるもので、閣僚も、陸軍大臣、海軍大臣、外務大臣以外はすべて政友会員が充てられたためであった。

原は政権に就くと、直ちにそれまでの外交政策の転換を図った。まず、対華21ヶ条要求などで悪化していた中華民国との関係改善を通じて、英米との協調をも図ろうした。内政については、教育制度の改善、交通機関の整備、産業及び通商貿易の振興、国防の充実の4大政綱を推進し、とりわけ地方の鉄道建設には極めて熱心だった。

教育政策では高等教育の拡張に力を入れ、「高等諸学校創設及拡張計画」が可決され、官立高等教育機関の大半が地方都市に分散設置された。また、慶應義塾大学、早稲田大学、などが旧制大学への昇格が認可され、その後も多くの私立大学が昇格した。

また原は、地方への利益還元を図って政友会の地盤を培養し、地方の期待は大きいものがあったが、内政における積極政策のほとんどは、政商、財閥向けのものであったと云う。また、「平民宰相」と呼ばれながらも、普通選挙法の施行には否定的だった。

原は政友会の政治的支配力を強化するため、反政党勢力の基盤を次第に切り崩すなどしたが、一方で反政党勢力の頂点に立つ元老山縣有朋との正面衝突は注意深く避け、彼らへの根回しも忘れなかった。その意味で原は、「平民宰相」の表の顔とは別に、卓越した政治感覚と指導力を有した、現実主義の上に立った政治家であったと言える。

大正10年(1921)11月、東京駅で中岡艮一により短刀で刺されほぼ即死した。65年の生涯であった。彼の政治力は余りに卓抜していたため、原亡き後の政党政治は一挙にバランスを失っていった。

遺書には「位階勲は余の好むものではない」「東京では何らの式を営まず、遺骸は盛岡に」「墓石には姓名以外、戒名や位階勲党は記すに及ばず」とあった。遺書の通り、その墓石には「原敬墓」とのみ刻まれており、その隣には、内外の厳しい政情の中を歩んだ原敬を最後まで支えた妻の浅が、「主人と同じ深さで埋葬されたい」という願いの通りに眠っている。

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