岩手県二戸市白鳥字金林

2017/05/12取材

 

坂上田村麻呂は蝦夷征討のためこの地に到ったが、蝦夷の強い抵抗にあい苦戦した。このため、大同2年(807)、戦勝を祈願するため、近江国坂本から山王権現を勧請したのが始まりと伝えられている。

その後の弘仁2年(811)に、田村麻呂に代わり征夷将軍となった文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)がこの地を訪れ、一体の蝦夷を平定帰順させ、蝦夷を全滅させたことにより、兵士配備を縮小し、百姓に対する徴兵の廃止、4年間の課税免除を行った。

文室綿麻呂は、坂上田村麻呂と行動を共にした武官で、延暦20年(801)には、坂上田村麻呂らと共に蝦夷征討のために東北地方へ派遣され、田村麻呂らと共に昇叙され正五位上に昇進している。

大同5年(810)に発生した薬子の変では、平城上皇方と疑われ拘禁されたが、綿麻呂を良く知る田村麻呂のとりなしにより拘禁を解かれ、田村麻呂とともに平城上皇を迎え撃つために出撃した。

薬子の変後、陸奥出羽按察使として東北地方に駐在し、蝦夷征討に務め、弘仁2年(811)に、一体の蝦夷制圧に成功し、辺境の防衛体制を解除させ、その功により従三位に叙せられ、後に右近衛大将、中納言に昇進した。

た。このとき兵士たちが戦の勝利を喜び、武器を持って踊ったのが、この地に伝えられる「綿麻呂」のはじまりとされる。

この地に伝えられる「七ツ物」とは、神楽の一部分で、戦いに使った武器の、先棒、やり、なぎなた、おの、弓矢、戦手、杵手(きねて)の七種を持った山伏姿の踊り子達と、太鼓、笛、手平鐘を持ったお囃し達が一団となり、円陣や行列になって踊るもので、谷地を払い、悪霊を薙ぎ、開墾を進めて五穀豊穣を目指すことを表しているという。踊りは、七ツ道具を振りかざしながら、勝ち誇った姿をそのまま表現している勇壮なもので、戦勝の踊りと言われている。

その由来は、文室綿麻呂の戦勝の踊りで、蝦夷征討が成功したことにより、農民の負担が解消されたことでの喜びを表したものと伝えられるが、他に、源義経が平泉を追われ、北海道へ渡る途中、義経の一行が悪者退治をした際の踊りが始まりで、弁慶の七ツ道具になぞらえたものとする説もある。