岩手県紫波町二日町字古館

震災前取材

  • 標柱
 

高水寺は、称徳天皇の勅願により、神護景雲2年(768)に創建されたと伝えられている。当時は一丈あまりの観自在菩薩が祀られていたと云う。平泉藤原氏の庇護を受けていたと思われるが定かではない。高水寺は廃寺となり、現在の建物は跡地に建てられた観音堂であり、中に木造十一面観音立像が収まっている。

盛時には一山40余坊が栄えていたといわれているが、戦火などによって次第に衰え、鎌倉の平泉征討軍がこの地の近くの陣ヶ岡にきた時は16坊であったと云う。現在の地名に残る大坊や、古屋敷にも坊があったと伝えられ、かなり広大な敷地であったようだ。

頼朝は文治5年(1189)9月に平泉征討軍を率い、陣ヶ岡に7日間滞在した。このとき、高水寺の僧ら16人が陣所に出頭し、「高水寺は称徳天皇の勅願によってできた寺で、諸国に安置されてある一丈の観自在菩薩像のうちでは、もっともりっぱなご本尊である。この寺に御家人たちの家来が多数乱入して、本堂の壁板13枚をはがし取るなど乱暴狼藉をはたらいた」と訴え出た。

頼朝は梶原景時にこれを調べさせところ真実とわかり、僧らの面前で狼藉をはたらいた者たちに刑罰を加えた。頼朝は、高水寺の鎮守として走湯権現を勧請して厨川の柵に向かったと伝えられる。

その後この地は足利氏の一族の斯波氏が支配した。しかし斯波氏は南進する南部信直に破れ滅んだ。高水寺は南部氏の厚遇により、他の寺院とともにが盛岡に移ったが、その後廃寺になった。

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