岩手県紫波町宮手字陣ヶ岡

震災前取材

 

別名:比与鳥の柵?

陣ヶ岡は、北上川と奥羽山系の山裾に挟まれた要衝の地にあり、坂上田村麻呂、源頼義・義家、源頼朝、南部信直等が陣所として使用したと伝えられる。

この地には様々な言い伝えがある。

「坂上田村麻呂が803年に志波城を築く時に軍勢や人夫一万有余人もが宿営した」
「安倍貞任はこの地に遊楽のための庭園を築いた」
「前九年の役の際、頼義が陣を敷き、貞任はこの地で首をさらされ京に送られた」
「頼朝は文治5年(1189年)ここに布陣し、貞任の例に倣いこの地で、貞任の首をさらした家臣の子孫に命じて泰衡の首をさらさせ、貞任の時と同じように八寸くぎを打ち泰衡の首をさらした」

天正16年(1588)夏、斯波氏家臣が叛乱を起こした。この斯波氏の混乱をみた南部信直は、みずからが出陣して北上川を越えて陣ヶ岡に兵を進め、陣ヶ岡に陣を敷き、高水寺城(郡山城)を攻囲した。

南部氏の攻撃に斯波勢も防戦につとめたが、ついに斯波詮直は高水寺城を脱出して山王海に亡命したという。かくして、斯波郡六十六郷は南部氏の手に落ち、家臣の多くは南部氏に降り、名門斯波氏は没落した。