岩手県雫石町

震災前取材

  • 旧秋田街道
秋田街道は、盛岡城下から国見峠を越えて久保田藩領の生保内に至る奥羽山脈越えの街道で、現在の国道46号にあたる。

古代より主に戦略の道として往来が盛んで、南部氏の出羽進出、戸沢氏の雫石から角館への移動など、国見峠越えが使われてきた。

江戸時代、盛岡城が盛岡藩南部氏の居城となって以来、盛岡と秋田を結ぶ最短の道として利用された。西廻り航路で秋田藩土崎に陸揚げされた物資の輸送路として整備され、宝暦年間()に南部領内に野辺地湊が開かれ、奥州街道を通じた輸送が行われるようになったが、盛岡の商人は、土崎から陸送した方が距離も近いとして秋田街道を利用し続けた。

文化年間(1804~18)には、土崎で陸揚げした西国の塩や銀・木綿・古手・綿類・茶・小豆・すげ笠・越中富山の売薬などが盛岡に運ばれ、盛岡からは大量の塩干魚・海藻類が秋田へ運ばれたとある。享保年間(1716~36)には、一日に千駄の物資が交流したとある。また、幕府・諸藩の馬買役人や諸国巡見使が、秋田仙北郡から雫石経由で盛岡に入る道としても使われた。

江戸時代の寛永2年(1625)から元禄3年(1690)まで、毎年秋に、江戸幕府から「公儀御馬買衆」と呼ばれる軍馬買い入れの役人が派遣されており、江戸幕府は軍馬購入のために、宮城県の刈田郡から笹谷街道を通り出羽に出て、途中横手の馬市で仕入れた後、国見峠を越え、主産地の盛岡入りするのが通例だった。雫石には専用の御仮屋を作り、家老が出迎えて接待するほどだった。軍馬の購入は例年二百頭前後にもおよんだ。このため秋田街道も、奥州街道と同じように、整備された。

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