岩手県一戸町姉帯字舘

2016/09/25取材

姉帯集落から南東1kmの地に位置し、南側は馬淵川に面する断崖で、北側も自然の急斜面となっている。城は東から西に延びる尾根上に、東西の2つの大きな郭が配され、西側に数段の小郭が配されていたようだ。城域の東端は、二重の空堀で尾根を断ち切り、西郭と東郭の間は、深さ約20m、幅約20mの空堀と、高さ2~3mの土塁で区画されている。西郭は約130m×60m、東郭は約120m×100mで、東郭が主郭と考えられる。現在は西郭は整備され公園化しているが、東郭は未整備で、山林になっている。

姉帯城は中世南部氏の一族の姉帯氏の居城である。姉帯氏は、南部氏16代助政の子息が、姉帯小次郎を称したのが始まりとされ、姉帯の地に500石の他、飯岡(偏在の盛岡市)に1000石を領していた。

その後姉帯氏は、九戸政実の祖父である九戸修理信実の弟の兼実が、姉帯氏を継ぎ、姉帯蔵人を名乗った。

姉帯氏は、南部氏の宗家を巡る、田子(南部)信直と九戸政実の争いでは九戸氏側につき、信直方と争った。南部信直が豊臣秀吉の小田原攻めに参陣し、南部宗家としての立場を固めたのちも
九戸政実と南部信直の間の争乱は収まらず、手を焼いた信直は、九戸方の動きを、天下の総無事令に違背するものとして豊臣秀吉に訴えた。

天正19年(1591)、豊臣秀吉は南部信直の訴えに対し、6万の奥州仕置軍を差し向けた。これに対し、当主の姉帯大学兼興(かねおき)と五郎兼信兄弟や、大学の妻で薙刀の名手小滝の前、棒術の名手である小屋野など、一族郎党2百数十名が城にこもった。

姉帯勢は地の利を利用し、姉帯城に向かって進軍中の蒲生勢に対し伏兵で痛撃をくらわせた。兼興自身も伏兵を率い城外に打って出て奮戦した。しかし蒲生勢は2万8000の兵で十三段構えの陣をしき、姉帯城を取り囲み、総攻撃をかけた。

姉帯勢は、小瀧の前も戦いに加わり、兼信は城外に突出して上方勢を掻き乱し、それぞれが奮戦するも多勢に無勢で、兼興夫妻と兼信は、城内に乱入した仕置軍と散々切りあった末に自害し、姉帯勢の大半も討ち死にし、城は落城した。兼興25歳、小瀧の前21歳、兼信23歳だったと云う。

一説には、姉帯城落城の折に兼信の幼子が乳母に匿われて金田一村まで逃げ延び、その後に小林氏を称して慶長14年(1614)に秋田へ移ったと伝えられる。

落城後の天正19年(1591)8月、姉帯城は一戸南部氏の一族である野田氏が入城したが、翌念には破却された。

平成8年(1996)の調査の結果、多くの出土物があり、特に西の郭跡からは多くの墓跡が見つかり、また人骨や武具も多く出土し、合戦の生々しさが感じられたという。