岩手県八幡平市田頭

2013/06/16取材

田頭城は岩手山の北東麓、松川北岸の比高約50mの独立丘陵に築かれた山城。縄張りは、南北に細長い頂部を堀で断ち切り、南郭と北郭の二郭を置き、南東側斜面に、階段状に郭群を配している。各郭の規模は主郭の南郭が東西約50m×南北約40m、北郭が東西約42m×南北約13mほどである。主郭と北郭間は堀切で区画され、その堀底は南東に回りこみ腰郭になっている。東側斜面には最大10m程度の切岸で仕切られた帯郭が配されている。主郭の北側は高さ5m程が削り残され、櫓台として使用されたと思われる。また北郭の西側縁部にも土塁が残されている。

鎌倉期、岩手郡には地頭職として鎌倉御家人の工藤氏が入部した。工藤氏は、領内に庶子を分知し惣領支配を行い、庶子家の葛巻河内守信祐の子直祐がこの地を分知され、田頭氏を称して田頭城を築いたと伝えられる。葛巻氏は南部家とも関係を結び、南部家から分かれたともいわれており、田頭氏も、天正の末年頃には、南部氏直属としてこの地に1千石を領した。

天正19年(1591)2月、宮野城主の九戸左近将監政実が、南部信直に対して反逆ののろしを上げ、一戸、苫米地、伝法寺の三城に夜襲をかけた。これに平舘城の平舘政包が呼応し、付近の南部方の沼宮内佐々木、北、寄木の各氏を攻略して、 田頭城へ殺到した。

田頭氏は、松川の流れを引き入れて四囲に濠を巡らし、城は要害堅固な備えだったが、勢いに乗った政包の軍勢は再三にわたり夜討を敢行、新手を繰り出し繰り出し攻め立て、田頭城もついに落城した。城主直祐は搦手から脱出し、大更の夏間木まで逃げたが追手が迫り自刃して果てたと伝えられる。