震災前取材

岩手県住田町上有住字八日町

 

元亀年間(1570年頃)にはすでに集落をなしていたと伝えられる。葛西領の最北端の位置にあり、上有住城がこの地に置かれた。軍事的にも重要な地で、城下町として整備された。

慶長6年(1601)3月、遠野の領主だった阿曾沼広長が南部氏の謀略により遠野を追われ、伊達領の世田米に逃れていた。広長は、伊達氏の後ろ盾を得て遠野奪還の準備を進めていたが、遠野勢は機先を制すべくこの地に進出し、八日町は兵火にさらされ焼き尽くされた。
江戸時代には内陸部と沿岸部の産物の交換地となり、内陸部よりは米、麻布など、沿岸部よりは塩、乾魚、海草と、全て馬の背に積み、大船渡よりは、日頃市の田代屋敷から小松峠を通り八日町へ、八日町からは赤羽根峠を経て南部城下まで運んだ。

毎月、8日、18日、28日に市が立てられたことから八日町となったと伝えられる。