福島県泉崎村大字泉崎字鳥峠

  • 鳥峠稲荷神社
烏峠稲荷神社は泉崎村で最も高い山である標高486㎡の烏峠の山頂にある。地域の人々から「とうげさま」と呼ばれ尊崇を集めている。現在の本殿は、権現造りの建物に、透かし浮彫などの彫刻が見られ、江戸時代中期に造営されたもの。

平安時代の初め頃、藤原俊仁が嵯峨天皇の勅命を受け、下野の凶族の征伐にあたった。しかし戦いは苦戦し、白河郡のこの峠に一時退き陣を構えた。しかし賊軍に追撃され、峠の四方を取り囲まれてしまった。勇猛でならした俊仁も、命運ここに尽きたかと、遥か西にある都の方角を臨み覚悟を決めた。

その時、その西の空から、一羽のカラスが声高く鳴いて、何やらキラキラ光るものを落として去って行った。それは輝く金色の絹のようだった。家来たちがそれに近寄り拾い上げようとすると、どこからか現れた白狐が素早くこれをくわえて草むらへ逃げた。草むらをかきわけ白狐を追うと、山上の小さな祠あたりで忽然と姿を消した。

俊仁は「あのカラスこそ、わが氏神、大和国鳥ヶ嶺稲荷大明神の使いに違いない」とし、勇気百倍、兵たちを鼓舞した。俊仁は祠に鳥ヶ嶺大明神を祀り、奮起して再び賊軍に攻め込み、乱戦の末ついに賊軍を破った。

京に凱旋した俊仁は、このことを嵯峨天皇に報告し、天長5年(828)に奥州巡視の命を受けて、再び泉崎のこの峠を訪れた。そして峠の頂上に立派な社殿を新築し、この峠を「鳥ヶ嶺」と名付けたと云う。

この地にはかつて狼煙台があったとされ、また峠に散在する墓石には、平安時代の「承和」の年号や、菊の紋章が刻まれたものもあり、都人との関わりを推測させる。

この峠はその後、いつ頃からか「鳥峠」と呼ばれるようになり、この地の稲荷大明神は、周囲の民からは「とうげさま」として崇められるようになった。

その後の承和元年ころ、弘法大師が小祠で17日間の修行を行ったと伝えられる。

このような由来からか、前九年、後三年の役の際には、源頼義、源義家が戦勝を祈願し、社殿を修復し、また義家は石清水八幡宮を勧請して鎧一領を奉納した。また源頼朝も奥州征討の際に戦勝を祈願し、社殿の造営を行った。

その後も白河松平藩歴代藩主の崇敬を得てその庇護を受けた。