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福島県塙町塙字本町

  • 塙代官所跡
この地は幕府の直轄地となっており、幕府は、享保14年(1729)2月、塙の近隣5万石余を治めるため、竹貫の陣屋を開設したが、同年9月、塙のこの地に陣屋が移された。
この地は、常陸太田街道、平潟街道沿いに位置し、久慈川流域の年貢米の輸送の便、更には奥州外様大藩を抑えるための重要な地点に位置している。塙代官所は、大政奉還する慶応4年(1868)の4月まで、45人の代官がここで務めを果たし、この間この地方の中心だった。

この地で「名代官」の名を今に伝える寺西重次郎封元は、寛政4年(1792)から文政10年(1827)までの22年間在任した。当時、この地の農民は貧しく、子を間引きする習慣もあり、人々の心は荒んでいた。寺西は、農民心得を著わし、悪弊を改めるよう指導し、赤子養育費や子育手当金を支給し人口増にも尽力した。また農民の生活向上のため、開墾や治水事業を行い、寛政5年(1793)、窮民対策事業としてこの地に庶民の公園である「向ヶ岡公園」を造り、農民に現金収入の道を開いた。

塙代官所の敷地面積は、5435㎡、建物面積1134㎡余で、まわりに堀を巡らし、「表御門」をくぐると「御殿」と云われる代官の住居を兼ねた建物が南東に面して中心をなし、その北東には、「元禄長屋」と「公事方長屋」、御殿真後ろに「手代長屋」と「物置」、南西に「板蔵」があった。また、表御門前には、「年番所」が置かれていた。現在は跡地に社と標柱が建っているのみである。