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福島県塙町塙字桜木町…道の駅はなわ内

  • 田中愿蔵供養碑
道の駅「はなわ」の敷地の片隅に、幕末の動乱期に尊皇攘夷を唱えて決起した水戸天狗党の田中愿蔵の供養費がある。
水戸藩は水戸光圀の大日本史の影響などで、特に尊皇の気風が強かった。しかし、大老井伊直弼により、朝廷の意思が無視される形で事実上開国し、これに反発する水戸藩士らは井伊直弼を桜田門外で暗殺し、尊皇攘夷の嵐が巻き起こっていた。

愿蔵は、茨城県久慈郡で生まれ、水戸藩内の郷校の一つの野口時雍館の館長を務め、文久3年(1864)3月、水戸学の指導者藤田東湖の子、藤田小四郎ら62人の同志たちとともに筑波山に兵を挙げ、天狗党幹部になった。挙兵後、各地から続々と浪士、町民、農民らが集結し、数日後には150人、その後、最も勢いのあった時期で約1,000人という大規模な集団に膨れ上がった。

しかし、倒幕を志す愿蔵は、尊王敬幕の考えの小四郎と間もなく対立し、天狗党を割った。愿蔵らは上州に赴き、若い博徒や農民をかき集め別働隊として行動した。しかし、栃木で軍資金を要求し拒否され、陣屋に火を放ったことから、放火、略奪の罪で幕藩から追われることになった。各地を転戦し追っ手のやいばを逃れ、最後は八溝山にこもったが、同年10月、食糧も尽き果て隊を解散し山を下り捕縛された。

愿蔵は塙の代官所で調べを受けた後、この地の河原で処刑された。まだ20歳の若さだった。八溝山にこもった同志たちもそれぞれに捕縛され、棚倉町大梅でも24人が処刑され、現在墓碑のある一帯は天狗平と呼ばれている。

愿蔵らは、放火や略奪を重ねたと伝えられ、それが小四郎らも含めた水戸天狗党討伐の理由となった。しかし、愿蔵は頭も切れ、眉目秀麗な気品のある立派な男だったとも伝えられる。この地の供養塔は、愿蔵の処刑に関わった代官所の役人の手によって建てられたものと云う。