福島県棚倉町大梅字段河内
この地は、元治元年(1864)、筑波山の同志と袂を分かち、八溝山に篭った水戸天狗党の内の20余名が処刑され埋葬された地である。当時の棚倉藩主松平周防守康英が、処刑地に「三界万霊塔」を建立し供養し、その後この地は天狗平と呼ばれるようになった。
水戸藩は水戸光圀の大日本史の影響などで、特に尊皇の気風が強かった。しかし、大老井伊直弼により、朝廷の意思が無視される形で事実上開国し、これに反発する水戸藩士らは井伊直弼を桜田門外で暗殺し、尊皇攘夷の嵐が巻き起こっていた。
文久3年(1864)3月、水戸学の藤田東湖の子の藤田小四郎は、62人の同志たちとともに筑波山に兵を挙げた。挙兵後、各地から続々と浪士、町民、農民らが集結し、数日後には150人、その後、最も勢いのあった時期で約1,000人という大規模な集団に膨れ上がった。
しかし水戸藩内の保守派は、藤田らの改革派の排撃を始め、また幕府も天狗党追討令を出し、常陸、下野の諸藩に出兵を命じ、水戸藩も追討軍を結成し、元治元年(1864)7月、諸藩連合軍と天狗党との間で戦闘が始まった。しかし天狗党の士気は高く、天狗党の夜襲を受けるなどして諸藩軍は敗走、水戸へ逃げ帰った保守派は水戸城を占拠し、天狗党に加わっている者の一族の屋敷に放火、家人を投獄するなどした。このために天狗党内に動揺が起き、また天狗党の動きが、藩内の対立になり矮小化してきたため、天狗党と決別するものが多くなった。
藤田小四郎は、尊王敬幕とも言える考えを持っており、それに対して田中愿蔵は倒幕を主張しており、ここにいたり田中愿蔵らは天狗党を割った。愿蔵らは上州に赴き、若い博徒や農民をかき集め別働隊として行動した。しかし、栃木で軍資金を要求し拒否され、陣屋に火を放ったことから、放火、略奪の罪で幕藩から追われることになり、八溝山に篭ったが、飢えと寒さの中ついに解散し、そのうち20余名が棚倉藩により捕縛されこの地で処刑された。
藤田小四郎らが率いる天狗党本隊は、その後局面を打開すべく、幕軍の追っ手から逃れると共に、京都に上り一橋慶喜を通じて朝廷へ尊皇攘夷の志を訴えることを決した。11月京都を目指し出発し、主として中山道を通って進軍を続けた。途中、追撃してくる幕府軍と交戦しながら、越前に入ったが、京都からの幕府軍を徳川慶喜が率いていることを知り、慶喜に差し出した嘆願書の受け取りも拒否されて、ついに武装解除し投降した。
この投降した天狗党に対しての幕府の処分は苛烈で、計352名が斬首され、他は遠島、追放などの処分が科された。