福島県石川町中野字堀ノ内

2011/09/05取材

  • 縄張図(現地説明板)
 

藤田城の現在残る遺構は、戦国期までにかなり手を加えられてからのものと考えられる。比高約30mの丘陵先端部に位置し、北に藤田川、東と西は湿地帯だったと思われる。丘陵続きの東側 に大堀切を配し、城域を形成している。

城域は、東西約300m、南北約250mの規模を持ち、主郭は、城域の最高所に置かれ、東西約20m、南北約80mの平場を形成している。主郭の西の尾根に東西約80mの二の郭が置かれ、大手口からの防御正面となっている。北側が搦手口だったと思われ、主郭北側に接して一辺が約30mほどの方形の三の郭が配され、その南側の主郭西下に虎口が見られる。各郭にはそれぞれ幅の広い腰郭が配されている。

北側と東側には堀跡が見られ、特に丘陵続きの東側は、自然地形を利用し、長さ約100m、幅約20~40mの大規模なもので、中段から上段にかけて数段の堀底障壁を持っている。

平安時代後期に石川有光がこの地に館を築いたのが始まりであるといわれる。永承6年(1052)、前九年の役に際して有光は、父頼遠と共に、源頼義、義家父子に従い、安倍氏追討に加わった。その功によりこの地を賜り、康平6年(1063)、この地に下向し名を石川有光と改めた。その後、三芦城を築城し移った。

そのとき、この城は長男の藤田太郎光祐に預け、その後は石川氏の有力な一族であった大寺氏が入ったと思われる。天正10年(1582)、大寺清光は、伊達家から養子として入った宗家の石川昭光に背き敗れ、所領を没収され、石川氏 宗家が直接支配した。しかし天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置きで石川氏は所領を没収され、三芦城廃城と共に廃城になったものと思われる。

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