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福島県白河市白坂字明神

震災前取材

  • 古絵図(現地説明板)
 

奈良時代から平安初期にかけて、国の境には関の明神として男女一対の明神を祀る習慣があった。白河(奥州)側の明神が女神の玉津島神社、那須(関東)側の明神が男神の住吉神社となっている。しかし、これは関東側と奥州側では男神と女神が逆になっている。

一説には、この男女神については、内に女神を置いて国内の繁栄を祈り、外に男神を置いて外敵から守るというような意味があるという。この説からすると、奥州側では内は奥州側で外は関東側であり、関東側からすれば内が関東側で外は奥州側ということになる。

松尾芭蕉は、4月20日(陽暦6月7日)、この境の明神に到達した。ようやくこの旅の目的の陸奥(みちのく)に一歩を踏み入れた。奥の細道の序章で

…春立(たて)る霞みの空に、白河の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ…

とあり、この境の明神を越えるときには、その感慨はひとしおのものがあったろうと思われる。 芭蕉はこの後、かつての東山道は旗宿を通っていたと聞き、歌枕の「白河の関」を旗宿までたずねている。