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震災前取材

福島県白河市大字搦目山

  • 感忠銘碑
感忠銘の断崖碑は、結城氏の本城であった白川城跡の北東の搦目山の断崖に刻まれている。

文化4年(1807)、白河城主松平定信の「感忠銘」の三文字を得て、広瀬典が撰文し、結城宗広、親光父子の忠烈を後世に伝えるために刻んだもの。

結城氏は、源頼朝による奥州合戦で功を上げ、白河庄の地頭職となり、宗広の代になってこの地に威を張った。宗広は、子親光とともに南朝方の忠臣として白川城で勇戦し、元弘3年(1333)には、太守義良親王と陸奥国司北畠顕家をこの地に迎えた。建武2年(1335)の西上、延元元年(1336)の下国、さらに同年、北畠顕家と共に軍を率いて足利軍を攻め京都を奪還した。その後、九州に逃れた尊氏が再起を果たし京都に迫ると、顕家と共に足利軍と戦ったが、顕家は高師直と戦い敗死し、軍は壊滅した。宗広は海路吉野へと逃れたが途中遭難し伊勢で病死した。親光は、尊氏を暗殺するため偽って降伏したが見破られ、足利兵により殺された。