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福島県白河市南湖

  • 南湖十七景案内図
 

この地はもと葦、茅が生い茂る大沼と呼ばれていた低湿地帯であった。茶人、また優れた作庭家でもあった白河藩主松平定信は、幕府の老中職を退いた後の享和元年(1801)、この低湿地の狭い東側の堰堤を改修し、灌漑用水池をつくった。さらにこの地を公園化し、「四民共楽の地」とし一般庶民にも開放した。これは身分制度の厳しい時代にあって、画期的なもので、一般に「公園」という形で開放したものとしては、南湖は日本最古のものである。

この南湖を築造した時期は、江戸幕府成立からおよそ200年たち、その制度に様々な矛盾をきたしていた時期で、特に天明の大飢饉が社会の混乱を増長した。定信が老中の折に行った寛政の改革も、思ったほどの成果を上げることも無く、飢饉においては多くの農民が農地を離れ都市部に流入していた。定信は、この南湖の築造は、貧民救済も考えていたようで、職に困っている人たちを工事にあたらせ、給料を「つかみ取り」という形で支払ったと伝えられている。

南湖という名は、唐代の詩人李白が洞庭湖に遊んだ折に詠んだ「南湖秋水夜無煙」一節からとったものと云われている。遠くは西方の那須山、近くは東南方の関山を借景とし、鏡の山、月待山、小鹿山の丘陵に囲まれているこの地に、松、吉野の桜、嵐山の楓を取り寄せ、松虫や鈴虫を放し、湖に魚を放流し、藩士の水泳、操船のためにも使用したと伝えられる。また、定信自ら庭園内に関の湖、鏡の山などの17勝16景を選び、諸国の大名や文人に詩歌を求め、歌碑を造らせている。園内には現在南湖開鑿(かいさく)碑をはじめ多くの歌碑 、句碑、記念碑などが建っている。