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福島県白河市白坂字石阿弥陀

震災前取材

  • 白河革籠原防塁
 

この地の防塁は、関ヶ原合戦の前、上杉景勝が徳川家康の軍を迎え撃つために築いたものとされる。

中世の土塁の一部とも考えられるが、会津の向羽黒山城と同様、上杉氏の土塁の特徴である二重土塁である点や、堀幅などについても、上杉氏が築いたものと合致し、中世の館跡を改修 したものとも考えられる。江戸時代の軍記物では、数kmにわたり築かれた長塁と記されているが、現在は、約370m残っているのが見られる。

この長塁は平地に築かれており、一帯は湿地帯だったと思われる。上杉勢は北側の丘陵地帯に柵をまわし陣を置き、徳川軍をこの地に誘い込み、この長大な防塁と湿地で足止めし、上杉勢の主力は、西の那須や甲子方面から皮籠原を側面攻撃をする。また東側からは、棚倉町の南館に陣を敷く佐竹勢が攻撃する構想だったと考えられる。

上杉景勝や直江兼続が考えていたこの地での戦いは、徳川勢に痛打を与える野戦であり、篭城戦を戦うような城ではなく、この地が破られた場合は、最終的には向羽黒山城での篭城戦を考えていたものと思われる。