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福島県猪苗代町古城跡

 

 

別名:亀ヶ城址

猪苗代城は、街の中心部の丘陵に築かれた平山城である。東西約200m、南北約250m、比高約30mの規模をもつ。隣接する鶴峰城も同等の規模を持ち、中世における猪苗代城は鶴峰城も含めて考えるべきものと思われる。現在は、本丸、二の郭、帯郭、石垣、土塁、空堀の遺構が残る。大手口は城の東側で、ここには石垣が積まれ、巨大な枡形虎口が造られている。石垣は蒲生氏時代に造営されたものと思われる。西側には石垣はなく、巨大な空堀がめぐり、中世の城の様子を色濃く残している。

奥州合戦の功により御家人佐原義連に会津四郡が与えられた。佐原氏は、桓武天皇の流れをひく坂東八平氏の流れの三浦義明の子で、相模国の佐原(横須賀市周辺)を領していた。

義連の子の佐原盛連は地頭として会津一帯を治めた。盛連には六男があり、長男の経連が猪苗代を領し猪苗代氏を称した。四男光盛は黒川(現会津若松市)を与えられ、相模の国葦名郷を領したため葦名氏を称した。その後四男光盛の葦名氏の勢力が次第に強くなり、葦名氏が会津支配の主導権を握っていくことになる。

猪苗代城は、この猪苗代経連により、建久2年(1191)に築かれたと伝えられる。

猪苗代氏は経元の代で跡継ぎがなくなり、葦名氏から養子盛清を迎えたが、葦名氏からの独立志向が強く、盛清の子盛国は伊達政宗側につき、摺上原の戦いでは大きな活躍をした。しかしその後、豊臣秀吉の奥州仕置によって伊達氏が会津を離れると、盛国も猪苗代を離れ、約400年にも及ぶ猪苗代氏の支配が終焉した。猪苗代氏は伊達藩士として幕末まで存続した。

猪苗代氏が猪苗代城を去った後は、会津には蒲生氏郷が入封し、以降上杉景勝、蒲生秀行、忠郷、加藤嘉明、明成と領主は変わったが、猪苗代城は会津領の重要拠点として、江戸幕府の一国一城令でも例外として存城した。寛永20年(1643)、保科正之が会津藩主となり、猪苗代城には城代が置かれた。また、正之の死後はその墓所(城の北、土津神社)の守護という重要な役目も担った。

戊辰戦争(1868年)の際には、城を焼き払って若松へ撤退したため、建物は全て失われ、猪苗代城はその役割を終えた。その後明治になってから公園として整備され、平成13年(2001)、県指定の史跡に指定された。