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福島県猪苗代町三ツ和字前田

 

野口英世(ひでよ)は、日本の細菌学者。黄熱病や梅毒等の研究で知られる。英世を主人公とした子供向けの偉人伝が多数刊行され、医学研究者としては非常に知名度が高い人物である。平成16年(2004)より発行されている千円札の肖像になっている。

英世は、明治9年(1876)11月、この地で父佐代助、母シカの長男として生まれた。野口家は代々貧農の家系であった。幼名は清作。

1歳の時に囲炉裏に落ち、左手を大火傷し、貧しいために医師にかかることが出来ず癒着してしまった。明治22年(1889)、猪苗代高等小学校教頭にその成績を認められ、猪苗代高等小学校に入学、明治24年(1891)、同級生らの募金により、左手の大手術を受けた。

明治26年(1893)、猪苗代高等小学校卒業後上京。そのとき、「志を得ざれば再び此の地を踏まず」と柱に彫りこんだと云う。上京後は高山歯科医学院(現東京歯科大学)で、月額15円の援助を受け、同学院で雑用をしながら済生学舎(後の日本医科大学)で医学を学んだ。

明治29年(1896)、20歳で医師免許を取得、順天堂病院助手と高山歯科医学院で講師を務め、明治31年(1898)、北里伝染病研究所に勤め始め、この年に名を「清作」から「英世」に改めた。

明治32年(1899)、横浜海港検疫所検疫官補となり、横浜港に入港したペスト患者を発見診断した。このペストの日本上陸を防いだ業績から清国でのペスト対策としての国際防疫班に選ばれ清国に渡った。明治37年(1904)にはロックフェラー医学研究所に職を得、明治44年(1911)8月に「梅毒スピロヘータの純粋培養に成功」と発表、一躍、世界の医学界に名前を知られることになった。

大正3年(1914)に東京大学より理学博士の学位を授与され、この年の7月にはロックフェラー医学研究所正員に昇進、この年のノーベル医学賞候補となった。大正4年(1915)9月、15年振りに日本に帰国、帝国学士院より恩賜賞を授けられた。横浜港には、たくさんの人が出て野口を出迎え、世間では、野口フィーバーとも呼べる歓待を受け、日本各地の講演会にひっきりなしに呼ばれた。

大正7年(1918)、ロックフェラー財団の意向を受けて、まだワクチンのなかった黄熱病の病原菌発見のため、当時、黄熱病が大流行していたエクアドルへ派遣された。エクアドルに到着後、9日後には黄熱病と思われる病原体を特定することに成功、この結果をもとに開発された野口ワクチンにより南米での黄熱病は収束したと云われている。

西アフリカで黄熱病を研究していたイギリスの医学者ストークスは、野口ワクチンはアフリカでの黄熱病に効果がないという論文を発表し、ストークス自身も黄熱病で死亡した。このため英世はアフリカ行きを決断し、アフリカへ渡った。昭和3年(1928)、アフリカガーナのアクラに研究施設を建築、病原体特定を開始した。しかしまもなく自身が黄熱病に感染、5月、「私には分からない」という言葉を残しアクラの病室で51年の生涯を閉じた。墓はアメリカのニューヨークのウッドローン墓地にある。

野口英世は、徹底的な実験による実践派であった。気の遠くなるような実験パターンを全て実行してデータ収集を行った。アメリカでは、実験マシーンなどと揶揄され、日本人は睡眠を取らないなどと誤解されたりもした。しかし医学にかけるその情熱とは裏腹に、データ捏造や、実験段階での類推を断定的に書いている可能性が高いなど疑われているものも多く、その医学的業績を評価しない専門家も多い。

また遊興癖があり、清国渡航の際に、支度金100円を出発前に使い果たしたり、清国では月額約260円~390円の高給を得ていたが、毎夜遊興にふけり、また金銭を騙し取られ無一文で帰国した。明治33年(1900)の渡米の際には、渡航費200円を借金し、婚約により結納金300円を得ていたが、渡航直前に横浜の遊郭で遊興にふけり使い果たし、借金を重ねてアメリカに渡航した。英世はアメリカ人のメリーと結婚したが、日本での婚約の不履行や借金の不義理を重ねていたこともあり、大正4年(1915)の帰国に際しては、野口フィーバーの中、背を向ける者も少なからずいた。このためもあってか、以後、日本に帰国することはなかった。