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福島県猪苗代町見禰山

 

会津松平藩の初代藩主保科正之の墓は、磐梯山麓の見祢山の地に、土津神社の奥の院としてある。

保科正之は、慶長16年(1611)5月、第二代将軍徳川秀忠と乳母の侍女のお静との間に生まれた。幼名は幸松。

恐妻家だった秀忠は、お静が妊娠したことを知ると、正室であるお江与の方の悋気を恐れ、お静を武田信玄の次女である見性院に預けた。そこで生まれた幸松は見性院に養育され、この事実は秀忠側近の老中土井利勝の他数名のみが知るだけだった。元和3年(1617)、幸松は武田氏ゆかりの信濃国高遠藩主保科正光に預けられ、正光の子という名目で養育された。秀忠の正室お江与の方の死後、寛永6年(1629)18歳のときに、初めて父秀忠と面会した。その後寛永8年(1631)、高遠藩三万石の藩主となった。

秀忠の死後、その跡を継いだ第三代将軍徳川家光は、この謹直で有能な異母弟をことのほか気に入り重用した。寛永13年(1636)には出羽山形藩二十万石、寛永20年(1643)には会津藩二十三万石となり、以後会津松平家が幕末まで会津藩主を務めた。正之は幕府より松平姓を名乗ることを勧められたが、養育してくれた保科家への恩義を忘れず、生涯保科姓を通した。第三代正容のときに松平姓を名乗り始め、葵の紋を使用し親藩に列した。

慶安4年(1651)、家光は死に臨み枕頭に正之を呼び寄せ、「宗家を頼みおく」と言い残したと云う。これに感銘した正之は、寛文8年(1668)に『会津家訓十五箇条』を定め、第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記し、以降、藩主、藩士はこれを忠実に守り、幕末において藩主松平容保はこの遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として最後まで官軍と戦った。

家光の死後はその遺命により、第四代将軍家綱の補佐役として幕閣に重きをなし、文治政治を推し進めた。末期養子の禁を緩和し各藩のお家断絶を緩和、殉死の禁止を幕府の制度とし、玉川上水を開削し江戸市民の飲用水の安定供給に貢献した。明暦の大火では焼け出された庶民を救済し、上野に広小路を設置し、芝と浅草に新堀を開削、神田川を拡張するなど、江戸の防災性を向上させた。

また藩政にも力を注ぎ、産業の振興、飢饉時の貧農窮民の救済に当てるために社倉法を創設、また朱子学を藩学として奨励し、好学尚武の藩風を作り上げた。また90歳以上の老人には、身分を問わず、終生一人扶持を支給し、これは日本の年金制度の始まりとされるなど善政をしいた。このため正之は、同時代の水戸藩主徳川光圀、岡山藩主池田光政と並び、江戸初期の三名君と賞されている。

正之は朱子学を学び、山崎闇斎に強い影響を受け、神儒一致を唱えた。また吉川惟足を師に卜部家神道を学び、寛文6年(1666)には領内の寺社を整理して神仏習合を排斥した。

寛文12年(1672)12月、江戸三田の藩邸で死去、61歳だった。神式で葬られ、霊社号は土津(はにつ)霊神。以後、第二代正経を除き、会津藩主は神式で祀られている。延宝3年(1675)、墓所に隣接して土津神社が建立され祭神として祀られた。