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福島県猪苗代町八幡字形平山

 

猪苗代氏は、桓武平氏三浦氏の支族の流れで、三浦義明の七男佐原義連が会津に所領を得たことに始まる。義連の子佐原盛連には六人の男子があり、五男が三浦氏宗家を継ぎ、次男は北田氏、三男は藤倉氏、四男は葦名氏、六男は新宮氏の祖となり、長男の経連は猪苗代に住み猪苗代氏の祖となった。

佐原氏の惣領権は、葦名氏が握ったが、一族間の紛争は絶えず、北田氏や新宮氏は葦名氏に度々叛旗をかかげ争ったが、結局、葦名氏に屈服した。猪苗代氏も、応永27年(1420)、葦名氏と戦うなど、連年にわたって戦いを繰り返した。

その後、猪苗代経元のとき、嗣子がなく葦名盛詮の次男が継ぎ、猪苗代盛清と称し葦名氏に属した。その子盛国も猪苗代城主として葦名氏に属し、天正13年(1585)に50歳で家督を嫡子盛胤に譲り隠居した。しかし、後妻の讒言を信じて盛胤を廃嫡しようとし、天正16年(1588)5月、盛胤が黒川の葦名氏に伺候した隙に猪苗代城を襲いこれを奪った。盛胤は、猪苗代湖東岸の安積郡横沢村に拠って盛国と戦った。

この頃、米沢の伊達政宗は、人取橋の戦いに勝利し、葦名氏との対決姿勢を強め、度々葦名領に侵攻し小競り合いを起こしていた。この当時の葦名氏は、天正8年(1580)の葦名盛氏の死去以来、佐竹派と伊達派に別れ、様々な思惑から団結力に乏しかった。伊達政宗は、予てより猪苗代盛国へ内応を勧めていた。

伊達政宗は、翌天正17年(1589)5月には安積郡の安子島城、高玉城を攻め落とし、仙道と会津を結ぶ交通の要衝を押さえ、これに対し、会津黒川城の葦名義広は、佐竹、岩城氏らと共に伊達勢と対峙するため須賀川に出陣した。しかし政宗は安子島を発し、夜更けに伊達方についた猪苗代盛国の猪苗代城へ入城した。これを察知した葦名義広は、須賀川より急ぎ黒川へ戻り、夜更けに猪苗代に出陣した。

このとき盛胤は、葦名勢の先鋒として参戦したが、伊達勢の先鋒としての父盛国の旗を見ていったん退き、その後進み伊達の陣へ突入し、深手を負った。この戦いで、開戦当初は葦名勢は伊達勢に対して有利に戦っていたが、葦名勢は内部の結束力の弱さから、味方からの内応への疑心暗鬼で二陣以降が続かず、浮き足立ち総崩れとなっていった。

結局葦名氏は大敗し、葦名義広は佐竹氏のもとへ逃亡し、会津葦名氏は滅亡した。深手を負った盛胤は、横沢村へ帰り、その後耶麻郡内野村に隠棲し、その後会津に入った蒲生氏に仕えることも無く、寛永18年(1641)11月、77歳で没した。

伊達氏についた猪苗代盛国は、伊達家の準一家に列せら五千石を給され、、家督は次男が継ぎ宗国と名乗り、以後、伊達氏の家臣として続いた。