福島県須賀川市栗谷沢…翠ヶ丘公園

震災前取材

 

 

須賀川の領主の二階堂家は、須賀川に城代をおき、自身は鎌倉幕府の重臣として鎌倉にあったが、室町時代の文安元年(1445)、二階堂遠江守為氏の時に須賀川に下向した。

しかしそれまで城代として須賀川を治めていた治部大輔は、これを良しとせず、為氏らの入城を妨害した。一族の者たちの計らいで、両家和合のため、治部の娘三千代姫は為氏に嫁いだ。

三千代姫は教養深く、奥州でも屈指の美女であり、為氏は和睦を受け入れ、仲睦まじく暮らした。しかし城地の回復は進まず、家臣の中には諫言する者もおり、為氏は三千代姫を離縁した。

須賀川城をめぐる夫と父方の争いのはさまで進退きわまった姫は、為氏のもとを去る途中のこの地の涙橋の袂で自害した。十五歳だったと云う。

人問わば 岩間の下の涙橋 流さでいとま 暮谷沢とは

昭和30年(1955)地元有志の発願により、この地に「暮谷澤乃碑」が建立され、さらにこれに感動した彫刻家佐藤国義氏により須賀川市に寄贈され、昭和63年(1988)に地元の人々のご協賛により堂が建立され、姫像がおさめられた。