福島県須賀川市北町

2015/03/25取材

 

室町時代の長禄元年(1457)、須賀川城主の二階堂為氏が、二階堂氏一族の菩提寺として開基、建立した。為氏は、鎌倉の曹洞宗の僧侶、月窓明潭を招き、寺領千石を附して開山初代とした。

月窓明潭は応永32年(1425)伊勢に生まれ、相模の古刹最乗寺の名僧春屋宗能の弟子で、長禄寺は奥州ばかりか越後、下野などの国々に末寺百三十余寺を有する大本寺となり全国から参禅するものがあとを絶たなかったという。開山三年後、後花園天皇が勅使を同寺に使わし月窓和尚に仏日慧照禅師の勅号と、最高の僧衣である紫衣を贈り、さらに同寺を勅願寺としたとされる。

天正17年(1589)に、伊達政宗が須賀川城を攻撃し、須賀川城落城時に兵火にかかり焼失したが、その後まもなく再興され、文禄年間(1592~1596)に現在地に移った。
境内には伊達家から二階堂家に嫁いでいた大乗院の墓や、須賀川城落城の際に戦死した武士たちの墓が建てられた。

二階堂盛義の後室の大乗院は、伊達政宗の伯母であったが、盛義の死後、南奥羽の諸氏が伊達氏へ服属する中で、政宗の須賀川侵攻にあたって降伏せず籠城の道を選んだ。

政宗は、再三にわたり帰順を勧めたが、大乗院は聞き入れず、ついに天正17年(1589)12月、須賀川城は激戦の末に落城し二階堂氏は滅亡した。落城後、大乗院は政宗を嫌い佐竹氏を頼り、後に佐竹氏が秋田へ移封となり、大乗院もそれに随行したが、途中に病にかかりこの長禄寺境内の仮宿で養生したが、慶長7年(1602)息を引き取った。

その後、須賀川には蒲生郷成が入り、その菩提寺となり、境内には郷成の墓と伝わる五輪塔が建立されている。