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福島県喜多方市上三宮町上三宮字三島前

 

文治5年(1185)の奥州合戦の功により、佐原十郎義連は源頼朝より会津四郡の地頭職に任ぜられた。義連の子盛連は、六人の息子に所領を分け与え、この耶麻郡加納荘は五男の盛時に与えられた。盛時はこの地に青山城を築城し、以後加納殿と称された。

城の規模は東西約160m、南北約250m、現在は日枝山王神社が祀られている。中央には、物見台もしくは矢倉台と推測される比高約10mの高まりがあり、南北二つの郭から成る。遺構の残りは良好で、周囲には土塁と空堀が巡らされ、南郭の鳥居付近は土塁が二重となり、北郭の北東には虎口と土橋が設けられている。かつては東城、西城の2つから成り立っていたといい、平地に築かれた東城は平時の居館、丘陵上に築かれた西城は戦時の詰の城だったと伝えられるが、現在はこの西城のみが残っている。

盛時の子孫は青山城を本拠に勢力を拡大するが、次第に同族間の抗争が激しくなり、 特に同族の新宮氏は黒川葦名氏、加納佐原氏、北田氏らと合戦を繰り返した。応永9年(1402)、新左衛門実詮の代に、青山城は新宮次郎盛俊に攻められ 落城、加納佐原氏は滅亡した。