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福島県喜多方市慶徳町新宮

 

新宮城の城域のほとんどは、現在は水田、畑地となっており、その一角に城跡碑が建つ。本郭は東西約120m、南北約130mの方形で、周囲を土塁と水堀が巡り、一段高くなっている四隅には櫓台が置かれたと考えられている。本郭の周囲は幅約15~20mの水堀が巡り現在もその名残が見られる。南側に二の郭、西側に三の郭が置かれ、周囲にも幾つかの外郭があったと思われる。

文治5年(1189)、奥州合戦で功を挙げた佐原十郎義連は、源頼朝より会津に所領を与えられた。その子盛連は、6人の息子にそれぞれ所領を分け与え、長兄経連は猪苗代氏、次兄広盛は北田氏、三兄盛義は金上氏、四兄光盛は葦名氏、五兄盛時は加納氏となった。六男の時連がこの地を与えられ新宮氏を名乗り、建暦2年(1212)に築城したのが始まりとされる。

会津各地に分封された佐原氏一族は、その後次第に同族間で勢力争いを繰り広げる様になり、新宮氏も黒川葦名氏、加納佐原氏、北田氏らと合戦を繰り返した。新宮明継は天授5年(康暦元年、1379)、北田城主北田上総介政泰との合戦で討死したが、応永9年(1402)、新宮次郎盛俊は、青山城主加納実詮を攻め滅ぼし、次いで北田政泰と結び葦名盛政と争った。しかし翌年の正月、盛政によって新宮城を攻められ落城、盛俊は和を乞い許された。

新宮城は、葦名氏との対立、抗争の中で、居館部分を中心として拡張を重ね、巨大な城になっていったと思われる。応永20年(1413)に盛俊は新宮城西方約1kmの地点に詰の城として高館城を築き、備えを固めた上で葦名氏の郡代を攻撃した。対して葦名盛政は、同22年(1415)高館城を囲み激しく攻め立てたが攻略できず、以降新宮氏と葦名氏は毎年合戦を繰り広げた。

しかし、応永27年(1420)、高館城は葦名氏により総攻撃を受けついに落城、新宮氏一党は越後へと落ち延びた。その後新宮氏は越後で再起を図り、永享5年(1433)、会津侵攻の拠点とすべく津川城へと攻め寄せたが、城将金上兵庫介盛勝によって撃退され、一族はことごとく自刃討死し滅亡した。