福島県三春町字清水…天沢寺

震災前取材

 

天沢寺境内に安寿と厨子王の伝説にまつわる身代り地蔵堂がある。

安寿と厨子王は、今からおよそ千年前、岩城判官平政道の子として生まれたが、政道は逆臣の手にかかり一命を落としてしまった。当時政道には、万寿という13歳の女の子と、千勝という11歳の男の子がいた。これがその後物語にもなった安寿と厨子王であると云う。

父政道の死後、安寿と厨子王は母とともに一旦信夫に逃れたが、その後、岩城家再興を考え、京の都に上ることにした。しかし人買いにつかまり、 母は佐渡に売られ、安寿と厨子王は、丹後由良湊の長者である山椒太夫に売り渡された。

山椒大夫のもとで安寿と厨子王は酷使され、ある日二人は逃げる話をしていたのを聞かれ、安寿は額に十字に焼きごてを当てられた。その痛みに耐えながら守り本尊の地蔵尊に祈ると、不思議に痛みは消え、額の傷も消えた という。
ある日、安寿は、守り本尊の地蔵尊を弟厨子王にあたえ、一人で逃げることを勧め、自ずからは残り厨子王の逃げる手引きをした。厨子王は姉を気遣いながらも逃げおうせたが、安寿は火責め水責めに苛み殺された。

厨子王は丹後の国分寺に逃げ込み、僧に 姿を変えた地蔵尊に助けられ、その後磐城家の再興を果たし、姉の安寿の仇を討つ。そして、佐渡に渡り母をたずね、盲目になっていた母を探し当て、孝養を尽くしたと云う。

これらの話は、中世に説教節として多くの僧たちが各地に広め、また江戸時代には歌舞伎や浄瑠璃で取り上げられ、さらに明治期に、森鴎外が「山椒大夫」の題材とした。

安寿と厨子王伝説は、その内容を少しずつ変えながら伝えられ、主に安寿と厨子王の話に出てくる京都までのルートを中心に、安寿と厨子王の墓、供養碑、身代り地蔵が点在している。

・天沢寺

室町時代に現在の郡山市西田町に開かれ、戦国期に三春会下谷に移り、江戸時代初期に現在地に移った。江戸時代には、領内18の末寺を束ねた曹洞宗寺院で、本堂は壮麗な彫刻で飾られている。

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