福島県喜多方市熱塩加納宮川字墓ノ西

 

この地に残る五輪塔は、古くから会津葦名氏の祖の佐原十郎義連(よしつら)の墓と伝えられる。

中央の五輪塔が義連の墓と伝えられ、寛文8年(1668)、会津藩主保科正之が山崎闇斎に命じて史実をさぐり、元禄8年(1695)松平正容が「佐原義連の碑」を建立した。

義連の墓は、当初は岩尾館付近にあったとの伝承もあり、またこの五輪塔の形式は、室町時代の形式であることから、義連の没後しばらくしてから建立されたものと思われる。塔の周囲には五輪塔10基があり、家臣の墓と云われている。

佐原義連は、鎌倉時代初期の相模の豪族三浦義明の末子で、現在の神奈川県佐原に居住していたため佐原氏を称した。治承4年(1180)8月、源頼朝が挙兵すると一族と共に参じて御家人となった。

源平合戦の一ノ谷の戦いでは、源義経率いる搦手軍に属し、鵯越の逆落としでは真っ先に駆け下りたと伝えられる。文治5年(1189)7月の奥州合戦にも従軍し、その功により会津、河沼、耶麻の諸郡を与えられた。

宝治元年(1247)の宝治合戦において、三浦氏宗家は滅亡したが、会津に分かれた佐原氏は、義連の子の盛連の代に子供たちを会津各地に配し、その中の黒川(現会津若松市)の葦名氏が会津支配の主導権を握っていくことになる。

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