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福島県喜多方市慶徳町豊岡字今町

 

本郭跡は慶徳小学校になっており、その周辺の城域は幼稚園や宅地、畑地となっている。本郭は東西約80m、南北約92mの規模を持ち、その東側に東西約60m、南北約76mの二の郭、その南側に東西約72m、南北約60mの三の郭が隣接する、連郭式の平地方形館であったと思われる。

慶徳城の築城年代、築城主ともに詳細は定かではない。しかし、弘長年間(1261~64)には武藤氏が代々居城としたとも伝えられ、また、弘治元年(1555)に葦名氏一族の会津新左衛門経光の子孫九郎資連が築城し、以後慶徳氏を称したとされる。天正年間(1573-92)には黒川の葦名氏家臣、慶徳善五郎範重が居城したと伝えられる。

慶徳氏は、永禄3年(1560)、葦名盛氏が石川郡松山へ出兵した際に慶徳盛勝が新宮吉田重秀らとそれに従い、常陸国太田城主佐竹義昭、田村郡三春城主田村清顕と戦った。しかし元亀2年(1571)、盛氏が白河郡へ出兵して佐竹義重と戦った際、それに従った慶徳次郎左衛門は討死した。慶徳氏はこのとき嗣子がなく一時断絶した。

天正年間に城主であった慶徳範重は、葦名氏四天宿老と称される重臣の平田是亦斎舜範(ぜやくさいきよのり)の男子で、慶徳氏の名跡を継いだという。

天正8年(1580)、葦名盛氏が没した後、葦名家中は佐竹派と伊達派に分かれ乱れたが、慶徳範重はよく葦名氏を支え、天正12年(1584)、大沼郡の松本行輔が葦名盛隆に叛し黒川城を占拠した際には、これに与した耶麻郡の勝(すぐれ)次郎を討ち、また翌年、耶麻郡の松本備中守が伊達氏に内通し、伊達家臣の原田左馬介宗時、新田常陸を引き入れて喜多方へ侵攻した際はこれを撃退した。

天正17年(1589)、摺上原合戦の翌日、伊達政宗はこの地に兵を進めており、慶徳範重はこの間の戦いで討死、慶徳城も以後廃城となったものと思われる。