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福島県喜多方市慶徳町豊岡字不動前

 

慶徳稲荷の由来は古く、寛治5年(1091)、後三年の役に際して、源義家が清原武衡征伐のためにこの地に来た際に、京都伏見稲荷をこの地に勧請し神領を寄進したのが始まりという。

その後、領主の変遷や兵乱により衰微し、社殿も朽ち果て、神木の杉の大木が数本繁茂しているだけとなった。

応永3年(1397)、殺生石を退治し、景徳寺の開山となっていた源翁和尚が、霊女の夢知らせにより神社の再興を思い立ち、広く勧進し社殿を建て境内を整備し、昔の姿に復元した。

これ以降、領主の庇護を受け、特に寛永20年(1643)保科氏が会津の領主として入ると深く崇敬し祈願所と定めた。

神事として7月に行われる御田植祭では、500年ほど前に作られたとされる御田植歌が歌われる。明暦3年(1657)の頃より、この祭りは一時廃れたが、天保5年(1835)再興され、会津藩の学者の沢田名垂らが補作し、今日まで歌い継がれている。