郡山市西田町鬼生田字前田(廣度寺)

2014/03/16取材

 

廣度寺は、大同年間(806~810)に開かれ、文明年間(1469~1487)に鬼生山廣度寺として開創された。

桓武天皇の時代(761~804)、昔、この地の田んぼで田植えをしていた女が急に産気づいて、そのまま田んぼで赤ん坊を産みおとした。その子は大多鬼丸と呼ばれ、7歳の頃には身の丈も五尺ほどになり力も強く、成長してからは大変武勇に優れ、人々は「鬼」といって畏れ敬うようになった。やがて大多鬼丸は、この地域一帯の長となりその勢力を広げていった。

蝦夷征伐を意図していた朝廷は、この噂を聞き、延歴20年(801)坂上田村麻呂に征伐を命じた。大多鬼丸は、現田村市大越の鬼穴に味方とともに籠もり、これを迎え撃った。しかし衆寡敵せず、紀州の熊野に落ち延びたと伝えられる。

田村麻呂は大多鬼丸の武勇を称え、人々の心を安堵させるため、廣度寺を建立し、また土地の人々は大多鬼丸を偲び、鬼生明神堂を建立してその武勇を称えた。

その後、鬼生明神は諸人の願い事を叶えてくれる明神様として広く信仰を集めるようになり、中風除け、厄除け、さらには諸難を遠ざけ福を招く明神様として今も多くの信仰を集めている。