郡山市西田町鬼生田字前田(廣度寺)

2014/03/16取材

 

この廣度寺の梵鐘は、当初は永徳2年(1382)に鋳造されたもので、「鶴姫の鐘」とも呼ばれている。

かつてこの地は、田村清顕の家臣で木村館の城主の木村信常が治めていた。天正7年(1579)春、二本の畠山氏、会津の葦名氏、須賀川の二階堂氏の連合軍と田村氏との合戦となった。このとき、木村信常は畠山氏に寝返り、畠山の家臣の新城少弼と遊佐下総守の勢を城に引き入れ、田村氏を攻撃するための計略をめぐらした。

しかしこれは田村清顕の知るところとなり、清顕は激怒し、重臣の鬼生田弾正、前館主人に命じ木村館を攻めさせた。その攻撃は凄じく、一族は悉く殺され、鶴姫を始めとした妻子はとらえられ、阿武隈川の深い淵に沈められた。

鶴姫は、身は滅ぼうとも魂魄は留まり、この川の主となって仇をなすであろうと、怨みを残して沈められた。その怨みのためか、鶴姫の遺骸は、7日間、下流に浮き上がり流れもせず同じ所に止まっていた。また大雨で阿武隈川の水があふれ、この地の人々を大いに困らせた。

これは、鶴姫をはじめとする木村一族の怨みだろうと、当寺の梵鐘をその淵に沈め、懇ろに大供養を行った。その時大きな緋鯉が天に昇ったと伝えられる。

そのしばらく後、木村氏を攻め滅ぼした鬼生田、前館両氏の人々は、鶴姫や木村一族は就仏を遂げただろうと考え、この鐘を引き上げ廣度寺へ納め、永く供養をしたという。